ぼのと明るい光がさしてくるのであつた。さういふ明暗のくりかへしを古賀は幾囘も/\經驗した。春、夏、秋、冬と失明してから丁度一年をおくり、その季節々々のかはり目にはことに自然の影響を今までになくはげしく受け、からだの弱つた時にはやはり心の弱り方もひどかつた。しかしつひには古賀も行きつくところへ行きついたものであらうか。この頃では明るい光をみることの方が多くなり、折々は陰翳《かげ》がさしても自分の工夫でそれを拂ひのけることができるやうになつたのである。
 最初古賀がその前にをのゝいた冷酷な現實の、個人の幸不幸を一切度外視して悠々とまはつてゐる歴史の齒車の、その前に立つて今の彼はもうふるへてはゐない。彼は目をおほはずにその前に立つことができる。いや、この頃の彼は赤はだかな現實の姿を見、その姿について思ひを潜めることが、自分の心を落つけるにいちばんいゝ方法であるとさへおもつてゐるのだ。個人の運命を無視して運行する歴史の齒車も、實は人間によつてまはされてゐるのであり、古賀もかつてはそのまはし手の一人であつた。だが途中であやまつて無慘にはねとばされ、今は癈兵となつてのこされてゐる。さういふ自分自身の姿といふものを冷やかに見つめることは寂しいには寂しい。だがそれ以外にほんたうに心のおちつくわざはないのである。街路をあるいてゐる人間のとり/″\の顏つきや姿勢などをひとりはなれてこつちから見てゐると、なんとはなしにをかしくなつて吹き出したくなることがありはしないか。自分自身の慘めな姿をも、一定の間隔をおいてそんなふうに笑つてみるだけの心の餘裕を持ちたいと古賀はおもふのだ。何ものゝ前にもたじろがぬさうした心をしかしどこに求めよう。それは結局はやはり、自分たちの(原文二十七字缺)ことのなかにある。(原文七字缺)自分の運命の暗さにも笑へる餘裕をあたへてくれる。眞暗な獨房のなかに骨の髓までむしばむニヒルをかんじながら、しかもなほそこから立ち直つて來た古賀の力もそのなかにあつた。その(原文二字缺)がもつと身について來た時に(原文二十七字缺)もできるのだ。死の一歩手前にあつてなほも夢想し、計畫し、生きる希望を失はない男。古賀はそんな男を自分の頭のなかにゑがいてゐる。
 おそらくはこのまゝの状態でなほ何年かつゞくであらう生活のなかにあつて、自分の(原文六字缺)を自分自身ぢつと見まもつてゆくことに、古賀はたのしい期待をかけてゐる。
 控訴公判の開かれる日の少し前、古賀は代筆で佐藤辯護士にあてゝ手紙を書いた。こんどの公判廷にのぞむ私の態度は、(原文六字缺)格別かはりのないものとして萬事よろしくおねがひいたします、と彼はその手紙のなかで言つたのである。
[#地から2字上げ](昭和九年七月・中公臨増)



底本:「島木健作作品集 第四卷」創元社
   1953(昭和28)年9月15日初版発行
初出:「中央公論臨時増刊号」中央公論社
   1934(昭和9)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2010年3月11日作成
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