盲目
島木健作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)房《へや》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)うの[#「うの」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)こつち/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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その日の午後も古賀はきちんと膝を重ねたまゝそこの壁を脊にして坐つてゐた。本をよむことができなくなつてからといふもの、古賀には一日ぢゆうなにもすることがないのだ。終日ぽつねんとして暗やみのなかにすわつてゐるばかりである。時々彼は立上つて房《へや》のなかを行つたり來たりする。わづか三歩半で向ふの壁につきあたるやうな房のなかなのだ。一分間に十往復とすると、一時間には六百囘、距離にすると、一里ちかくになる、などと考へながら古賀はあるく。しかしぢきに頭のなかがぐるぐるとまはつてくる。そこで彼はまたすわり、こんどは塵紙を引きさいて紙縒《こより》をよりにかゝる。途中で切らないやうにこの粗惡なぼろぼろな紙で完全な紙縒をよるといふことが、しばらくのあひだ彼をよろこばせるのだ。指先がひりひりするやうになつてからはじめて彼は手を休め、いろんなもの思ひにふける。頭が疲れてくると、また立上り、手さぐりで掃除をしたり、狹い房の四方の壁に氣づかひながら體操をしたりする。――朝のうち、古賀はいくどかそんなことをくりかへし時間を相手に必死の組打ちをするのであつた。しかし――あらゆるたゝかひののちに、結局はやはり壁に脊をもたせ、茫然としてすわるよりほかにはないのである。
――古賀は顏をあげて高い窓とおもはれるあたりに向つて見えない目を見張つた。その年の十月といふ月ももう終りに近づいてゐた。今日は朝から秋らしくよく晴れた小春日和のあたゝかさが、光を失つた彼の瞳にもしみるおもひがするのである。日は靜かにまはつて彼の脊をもたせてゐるほうの壁にもう明りがさしてゐる時刻である。手をうしろへまはしてさぐつてみると、はたしてほんのわづかの廣さではあつたが、つめたい石の壁がほのかなぬくもりをもつてその手に感じられるところがあつた。古賀はすわつたまゝ靜かにそこまでからだをずりうごかして行つた。高い窓からわづかにもれてゐる秋の陽ざしのなかにはいると、古賀の眼瞼には晴れ渡つた十月の空や、自分の今すわつてゐる房のすぐ前の庭に、日に向つて絢爛なそのもみぢ葉をほこつてゐるにちがひない、一本の黄櫨《はぜ》の木などがおのづからうきあがつてくるのであつた。陽は彼の垢づいた袷をとほしてぬくもりを肌につたへ、彼はしばらくのあひだわれ知らずうつらうつらとした。長いあひだ忘れてゐた、ふしぎなあたたかい胸のふくらみを感じるのであつたが、同時にさういふ自分の姿といふものがかへりみられ、秋の日の庭さきなどでよく見かける、動く力もなくなつて日向にぢつとしてゐる蟲の姿に似たものをふつと心に感じ、みじめなわびしさに胸をうたれるおもひであつた。――ちやうどその時、向ふの廊下をまつすぐにこつちへ向いてくる靴のおとがきこえてきた。
午後になるとこゝの建物のなかはひつそりと靜まりかへるのであつた。朝は、こゝの世界だけが持つてゐるいろいろなものおとが、――役人たちのののしりわめく聲、故意にはげしくゆすぶつてみるのであらうとおもはれる彼らの佩劍のおと、扉をあけ又しめる音、鍵や手錠のしまる時の鐵のきしむ音、出廷してゆく被告たちの興奮をおし殺したさゝやきの聲、――さういつたもの音が雜然としてそこの廊下に渦をまき、厚い壁と扉をとほし、それは恐ろしいひびきをその壁の内部に坐つてゐる者たちにまでつたへるのであつた。氣の小さい者はそのもの音にぢつとしては坐つてをれず、おもはず立上つてはいくどもそこの小さな覗き窓から外をうかがひ、房のなかをうろうろし、みじかい時間のうちに何度も小用に行つたりするのである。晝すぎになるとしかし朝のうちのさういふさわがしさもいつか消えてゆき、人々は心の落つきを取りもどすと同時に、ものみなを腐らす霖雨のやうな無聊に心をむしばまれはじめるのである。――さういふ靜けさのなかに、近づいてくる靴の音を聞き、耳の鋭くなつてゐる古賀はすぐにその靴音の主が誰であるかを悟つた。さうしてそれが近づいてくるに從つて、なんとはなしに自分のところへやつてくるもののやうに感ぜられるのであつた。はたしてそれはさうだつた。靴音は彼の房の前まで來て立ちどまり、やがて、扉があいた。うながされるまゝに古賀は机の上にのせてあつた黒い眼鏡をかけ編笠をかぶつて外へ出たのである。
「おい、こつち/\」と二度ばかり注意はされながら、人に手を取つてもらはなくてももうだいぶあるくになれて來た長い廊下を行き、つきあたりを右へまがり――そのまがりしなにす
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