してゐる同志上村と戀愛關係にあるらしいとのうはさを耳にした時にも、さういふ場合にすべての男が感ずるにちがひない一應の感情はうけながら、古賀は案外平氣で居れたのである。どういふ考へで言つたのかは知らぬ、ある時同志の一人が手紙に書いてそれとなく右の事實を古賀に傳へたのであつた。其の後面會に來た美佐子の樣子は、いつもと別に變つたとも見えなかつた。――目が今のやうになつてからはしかし古賀の心持は急に變つて來たのであつた。別れたくない氣持がひしひしと迫つて來たのである。その變り方を彼は心に恥ぢはしたが、心身ともに弱り藁一本にもすがりたい氣持になつてゐた當時の彼としては當然のことであつたらう。同時に古賀は美佐子の心にもなつて考へないわけにはいかなかつた。上村との事がほんたうであるとすれば、美佐子としても自分と別れるつもりでゐたにちがひはない。ただそれを言ひ出すに適當な時を待つてゐたのであらう。それがこんど古賀がかういふ不幸な目にあつてみれば、押し切つて言ひ出すわけにはいかず、さぞ困惑してゐることであらうと思はれた。幾度か躊躇した後公判の迫つて來たある日、古賀は彼女にあてて手紙を書いた。ぼくは自分の不幸な状態を口實に君をしばらうとはしない、ぼくの考へは今までと少しも變つてはゐない、と彼はそのなかで言つたのである。書きながらも彼女のうちに封建時代の貞女らしいものを豫想し、それをのぞむ心があり、古賀は自分の矛盾を恥ぢた。だがそれは自分勝手な考へでしかなかつた。しばらく經つてから來た美佐子の手紙ははつきりと別れることを告げて來たのである。
その手紙が來てから間もなく美佐子は一度面會に來た。今までどほり面會にも來たい、また差入れもしたいから承知してほしいとの事であつた。――面會を終へて歸つて來、房へ入つた時に古賀ははじめて浸みとほるやうな寂しさをかんじた。彼女の存在が自分のこゝでの生活を支へてゐた大きな柱の一つであつたことを今はつきりと知つたのである。心の一角がぽこんと凹んだやうな空虚な寂しさであつた。彼はいよいよたつたひとりになつた自分をするどく自覺した。
古賀はしかし同時にすべてから解き放された自由なおちついた氣持が深まつて行くのを感じた。葦のごとく細く弱いしかし容易には折れない受身の力を――弱さの持つ強さといつたものを自分のうちに感じたのである。
公判は翌年の二月の終りであつた。じとじととみぞれが降り、寒さがぢーんと腹にまでこたへるやうな日であつた。古賀はただ一人の分離裁判であつた。彼はかねて母が入れてくれた綿入れを重ねて着、いつものやうに黒い眼鏡をかけ、重い手錠の手をひかれて裁判所の第一號法廷につゞく高い三階の階段をのぼつた。手錠をかけられる時、いつもよくしてくれる年老いた看守が、「どうも、規則だから、な」と、低く、つぶやくやうに言つたその言葉を彼はしみじみとした思ひで聞いたのである。
古賀は陳述臺を前にして立つた。
「古賀良吉だね。」
裁判長の聲を聞いて古賀は低く、はい、と答へた。――一瞬、その直前までかすかにうちふるへ、そわそわしてゐた彼の氣持は水のやうに澄んで行き、陳述の態度もその瞬間において決定したのである。一應の事實しらべがすんだ時、人の好ささうな裁判長(勿論古賀は聲でさう思つただけである)は、「被告は拘禁中、目をわるくしたさうだが氣の毒なことであつた」といつた。うがちすぎた想像ではあらうがそのあとにすぐつづけて、「被告の今日の心境は?」と尋ねたところから察すると、向ふからそのやうに進んで失明のことを言ひ出すことによつて古賀に自分の不幸について訴へる機會を與へ、いはゆる轉向を彼に語らしむるやうに仕向けたのかも知れない、それは不幸な古賀に對する裁判長の好意であつたのかも知れない、とも考へられるのであつた。しかし古賀は、「はい」と答へたまゝ彼の受けた不幸についてはつひに一言も言はなかつたのである。心境は? と問はれた時には、過去において(原文十二字缺)と思ふといひ、今日はすでに(原文三十四字缺)と答へたのであつた。行動の出來ない身で依然その思想を固持するとは被告らの理論體系からすれば矛盾ではないか? とつつこまれたのに對しては、(原文五十二字缺)古賀はそれらの答辯をかんたんに落ちついた低聲で答へ、そして公判は終つた。
古賀の母はその日、やはり傍聽に來てゐた。あれが良吉かえ? あれが良吉かえ? といつて手錠編笠の姿で公判廷に這入つてくる古賀を不思議なものを見るやうに見つめながら、何度も何度も側の同志にきいてゐた。そしてあれが古賀にちがひないといふことを口ごもりながら、その同志が告げると、信じがたいと言つたふうにいつまでも小首をかしげてゐるのであつた。公判が終り、閉廷が宣言され、古賀がもう歸るのだと言ふことがわかると、その時ま
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