母は歌舞伎でないことを不滿がりながら、しかし子供のやうに喜んだ。幾つかの番組のなかに母と子を主題にした劇が一つあつた。結末は通俗なハツピー・エンドだが明らかにゴルキーの母をいくぶんか模したものであつた。見てゐる母はいくども吐息をついて言つた。
「よくやるのう、まるでうちの親子そのまゝぞい。」
歸りのはげしくゆれる電車のなかで、母はいくどもその夜の印象を語つた。そして生きてゐるうちに一度いい歌舞伎が見たいと言つた。雜誌の色刷りの口繪かなにかで名優の仕ぐさを見、いろいろ空想し、たのしんでゐるらしいのであつた。ぼろ電車のはげしい動搖からまもるために、手を脊なかからまはして母の小さなからだを抱きながら、古賀は、
「あゝお母さん、こんどは東京の歌舞伎につれて行つてあげますよ」と、あきらかな嘘を言つたのである。……
それから二日後の晝、母が畠に出てゐる間に古賀は家を出てそれつきり歸らなかつた。かんたんなおき手紙のなかには飜譯の稿料を入れておいた。もう稻刈のはじまる季節であつた。空も水も澄み切つて、故郷の秋は深い紺碧のなかに息づいてゐた。――その後年を經て親子がふたたび逢つたところは、いま古賀がゐるこの建物のなかであつた。
――面會に來る母の小さな姿を見るごとに古賀はいつも思ふのであつた。母はこの年になるまで生れた村を一歩も外に出たことのなかつた百姓女だ。それがこんどはじめて目に見えないある大きな力に押し流されてこの大都會に出て來たのだ。さうして自動車や電車の響に絶えず驚かされながら、世なれた人間でさへ脅やかされずにはゐないこの建物を訪ねてくる。そこではいかめしい鐵扉や荒々しい人々の言葉におどおどし、自分にはよめない西洋數字で書かれた面會札の番號をいくども側の人にたづね、――人々はその時あまりいい顏をしないだらう――その札を汗ばんだ手にしつかりと握りしめながら、そこの腰かけにちよこんと坐つて今か今かと呼び出しを待つてゐる、……古賀にはさうした母のめつきり白くなつた髮や、しよぼしよぼした目までが見えてくるのだ。時々母は塵紙のやうな藁半紙に鉛筆で一字一字刻みこんだやうな假名ばかりの手紙を書いてよこす。古賀は房の入口に近く立つて、房の外で無表情な言葉で話す役人にその手紙をよんでもらふのである。
公判までに古賀には尚一つ處理しておきたい問題があつた。妻の永井美佐子との關係である。
美佐子は彼の妻であると同時に同志でもあつた。こゝへ來るとすぐに、古賀は彼女に對し今後はどうにでも自由な行動をとるやうに、自分の事は忘れてもいい、仕事を忘れるなと言つてやつたのである。彼女に對する彼のかういふ態度は彼の平生の持論から出發してゐた。何年こゝにゐることになるか、生きて出るか死んで出るかもわからない身でありながら妻に向つてはいつまでもさうして待つて居れと強ひる、それは許されないことであると古賀は信じてゐた。古賀はかねがねこの建物のなかにゐる同志のある人々に對し苦々しいものを感じてゐたのである。彼等の外にゐる妻に對する態度といふものは、なんのことはない封建時代の家長のごときものなのだ。ここでの自分の生活に同志である妻の生活を全く從屬させようとするのである。外にゐる彼女たちの上にひたすらに夫の權利をふるまはうとするのである。――言ふならば、その二つの面は一箇の人間において別ちがたく統一されてゐるに係らず、同志としての彼女を忘れ、妻としての彼女の半面をのみ強調するにいたるのである。その結果はどうなるか? 彼女たちの多くは次第に(原文八字缺)、やがてはいはゆる家庭へ歸つた女となる。夫はまた夫でそれをむしろ喜こんでゐる。(原文八字缺)お互ひを高めるためにのみ結合した筈であるのに、彼は今はただ世間普通の男の女にたいする愛情を彼女に感じてゐるに過ぎないのだ。そのうちに彼女たちのうちの弱いものは墮落して行く。經濟的に窮迫してさうなつて行くものもある。さうならないものでも多くは弱つてなかにゐる夫に(原文二字缺)精神的影響をあたへるやうな言葉を面會ごとに口にしたり、手紙に書いたりするやうになる。夫もだんだん弱つて行く。さうした結果は(原文十字缺)彼の態度にもひびかないわけにはいかない。――これでは(原文八字缺)。
自分の周圍にさういふ同志の姿を餘りにも多く見せつけられた古賀は、つひにはいはゆる(原文四字缺)の結婚それ自體に反對したい氣持にさへなつてゐたのである。それは度をすぎた機械的な反撥ではあつたであらうが。彼が美佐子に對して取つた態度もさういふ氣持から出てゐた。自由な行動をとるやうに、といふ言葉のなかには別れようといふ意味をも含めたつもりであつた。お互ひが間違ひをしでかさないためにはそれが唯一の方法であると彼は考へたのである。だからその後美佐子が、ある合法的な組織に屬
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