げさに考へあまえた氣持でゐるかも知れないが、もつと普通でしかもはるかに(原文七字缺)がどれほど多く世間には行はれてゐることか。そしてさういふ不幸の根を(原文十二字缺)ためにはじめたお前の仕事ではなかつたのか。それにいまさら土壇場になつてやれなんの、やれかんのと。……
古賀は恥ぢた。人氣のない闇のなかで彼はひとり心で赤くなつた。
つひに古賀はある程度に心を決するところがあつた。しかしその決定的な態度といふものを山田辯護士にすら告ぐることなく彼は公判廷にのぞんだ。彼には自信がなかつたのである。きめておいても最後の場合、どうなるかも知れはしないといふ不安が絶えずあつたのである。そして一度思ひが年老いた彼の母の身の上に走るとき、その不安がますます大きなものになつて行くことを古賀は感ぜずにはゐられないのであつた。
古賀は母にはもう長いこと逢つてゐなかつた。母はその年、彼の捕はれた事實を知つて郷里から出て來、遠縁の家に身をよせてこの町に滯在してゐたのである。古賀の失明の事實は役所の方から一應知らせたらしい樣子であつた。母は幾度も面會に來たが、失明後の古賀は頑固に拒んで逢はずにゐたのである。逢つた瞬間の恐らくは胸もつぶれんばかりの老いた母の心の驚ろきといふものを想像するに堪へなかつたのである。
古賀が最後に母と別れたのは四年前の秋であつた。
ある爭議に關係してしばらく入獄し、やがて保釋出所した古賀はその年久しぶりで故郷へ歸つたのである。わづかの入獄期間中にも状勢は變つてをり、出て來た彼はある種の決意を要求されてゐた。その決意を固めるには時日の餘裕をおいてなほいろいろと考へて見なくてはならず、陰ながら母に長い別れを告げる爲にも一度は歸郷する必要があつた。母は地主で同時に村の日用品を一手に商ふ本家の伯父の家に寄食してゐた。
――わざと裏口から這入り、茶の間で伯父や伯母と挨拶してゐる間、母は臺所で何かごそごそと仕事をしてゐるらしい樣子であつた。その後ろ姿がこつちからも見えた。しかしその樣子は仕事はもう疾うにすんでゐながら、わざとさうやつていつまでも手間どつてゐるといふふうに古賀には見えた。やがて伯母によばれ、ぬれた手をふきふきやつて來たがその顏はむつと怒つてゐるやうな表情であつた。
「歸つただか」と低くふるへるこゑで、一口だけ言つた。古賀はその表情の[#「表情の」は底本では「衣情の」]かげに、激情を辛うじておさへてゐる、一と皮むけば泣き出すにちがひないものを見てとつた。
伯父伯母との間には格別話すこととてもなく三十分も坐つてゐる間にもう言葉はとだえがちであつた。好人物の夫婦であつただけに強い事は言はなかつたが、やはらかい言葉のなかにはげしい非難の針を含んで古賀を刺すのであつた。伯父は古賀の小學校時代の同級生の消息についていろいろ語つた。地主の息子で東京に遊學してゐたものは多くその年の春卒業してゐた。だれそれはどこへ就職したとか、だれそれは嫁をもらつたとかいふはなしを伯父はするのであつた。それが單純なニユースといふより以上の意味をもつて語られてゐる事は明らかであつた。父の死後、わづかばかり殘つた田地を賣つてそれを學資として上京してゐた古賀だ。母はその間、伯父の家に身を寄せて彼の卒業の日を待つてゐたのだ。それがもう一年足らずといふときに突然警察からよばれ、不吉な知らせを受けとらなければならなかつたのである。
母の居間にあてられてゐる三疊の部屋にはいり、古賀はそこで始めて母と二人きりで向ひあつた。母の顏を目の前にしげしげと眺め、五十の坂を越すと人はどんなに急速に老いるものであるかといふことを古賀ははじめて知つたのである。
「よう丈夫で歸つたのう」といふと、母の日に燒けた頬にはみるみる大粒の涙がつたはつた。
翌日から古賀は、遊んでゐる間にと東京で引受けて來た飜譯の仕事にとりかゝつた。少しは金にもなるのだつた。夜、母は机に向つてゐる息子の側でおそくまで針仕事をしてゐた。時々、「これ、通してけれ」といつて目をこすりこすり古賀の前に針と絲とを出すのであつた。古賀の若いたしかな目は待つ間もなく針めどに絲をとほすことができた。絲を絲まきにまく手傳ひをさせられることもあつた。さういふ息子の姿を見るときの母の目はやさしくうるんでゐた。母は東京での古賀の生活について少しも聞かうとはしなかつたし古賀も別に話はしなかつた。母は息子を信じてゐたのだ。惡者であるといはれてゐた息子は、歸つてみれば昔よりもやさしく言葉や態度はぐつと大人びて何か頼もしいものさへ感ぜられるのだつた。
三月ほど經つた。東京からはしきりに手紙が出來し、歸らなければならない日が近づいてゐた。さういふある晩、古賀は村から五里はなれたT市へそこの劇場にかゝつた新派劇を見せに母を連れて行つた。
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