歸り、そこから筋道を立ててものごとを考へてみるだけの心の餘裕をとりかへしてはゐなかつたのだ。彼が再たび起ち上つてくるまでには、なほ長い暗中模索の時が必要とされたのである。――さうしてかなり長い時を經たのちに、古賀が最初に心を落着けたところといふのは、一つのあきらめの世界であつた。それは必ずしも宗教的な意味を含んで言ふのではない、捨小舟が流れのまゝに身を任せてゐるやうにすべてを自然のまゝに任せきり、いづこへか自分を引ずつてゆく力に強ひて逆らはうとはせずそのまゝ從ふといふ態度であつた。なるやうになるさ、とすべてを投げ出した放膽な心構へであつたともいへる。今まで輕蔑し切つてゐた、東洋的な匂ひの濃い隱遁的な人生觀や、禪宗でいふ悟りの境地といつたやうなものがたまらない魅力をもつて迫つて來たりした。さういふ氣持におちつくための方法として古賀は好んで自分の貧しい自然科學の知識をほじくり出し、はるかな思ひを宇宙やそのなかの天體に向つて馳せ、やがてはほろびるといはれる地球のいのちについて考へたりそれからそのなかに住む微塵のごとき人間の姿について思ひを潜めたりするのであつた。すると世の人間のいとなみがすべて馬鹿馬鹿しいもののやうに思はれて來るのである。さういふ考へが一段と高い立場であり、窮極の行きどころのやうに一應は考へられてくることはなんとしても否めない事であつた。「社會」から隔離されてゐるこの世界にあつては、ひとり古賀のやうな異常な場合でなくてもすべての人間にとつてかういふ考へが支配的になる根據はあつたのである。しかし古賀はひとまづそこに落着きはしながら、心の奧ではそこが畢竟一時の腰かけにすぎないといふ氣持を絶えず持つてゐた。理論的に問題を解決してゐない弱味をはつきり自覺してゐたからである。いはば、それは、はげしい打撃にうちひしがれた彼の感情がずるずるべつたりに到達した場所にすぎなかつた。昔彼の立つてゐた立場はまだ少しも手をふれることなくそのまゝであつた。そして心の奧底では、古賀にはやはりその立場を信ずる氣持があつた。そこへやがてはもどつて行ける時がくるやうな氣持がほのかにしてゐた。――彼がしばらくでも腰をおちつけてゐたその立場が案外に早く崩れねばならない時がしかしやがてやつて來た。古賀が第一審の公判廷に立たされる日がさうしてゐるうちに近づいて來たのである。
 あたらしい身を切るやうに切實な問題が、さらにもうひとつ急速な解決を迫つてきた。公判廷においてどういふ態度をとるべきか、從來自分の守つて來た考へにたいしてはどうでなければならないかといふ問題である。古賀は懊惱し、息づまるほどの苦しみにさいなまれた。食慾は減り見るかげもなく痩せはてて久しぶりで逢つた山田辯護士が聲をあげておどろいたほどであつた。理窟の上からはしかしこの問題は、大して考へるまでもなくすでに早く古賀の頭のなかで解決されてゐた。ただ明かにわかつてゐることを踏み行へないところに懊惱があつたのである。くりかへしくりかへし古賀は自分に問ひ自分に答へてみるのであつた。――さうではないか? なぜといつて自分はもちろん一定の確固たる理由があつてその立場をとるにいたつたものである。ところでその後自分は思ひがけない不幸な目にあつた。だが、さうした個人的な不幸といふものが一體なんであるか? 人がどういふ不幸にさらされねばならないか、それを誰が知らう。どんな慘めな目に逢はうとも、自分をしてさうした立場をとらしむるにいたつた原因が除かれない限りは自分はその立場を棄てえない筈である。棄てたといへばそれは自らをあざむくものであらう。もちろん、失明した今の自分は自分たちの運動から見れば一箇の癈兵であるにすぎない。しかしそれは、自分が今まで抱いてゐた思想を抛棄しなければならないといふ理由にはならず、いはんや從來の考へが間違ひであつたといふことを宣言しなければならないといふ理由にはならないのである。……
 時にはまた自分の内部にうごめいてゐる醜惡な他の自分を擁護するために、あらゆる有利な口實を探し出し、ならべたて、それが決して醜くはないこと、それこそがほんたうの自分であることを論證しようとして全力をあげることもあつた。が、次の瞬間には彼はあわてて苦しげに頭をうちふり、自分自身をはつきりと眞正面に見据ゑ、思ひきり冷酷に言ひ放つのである。――今更になつてあれやこれやと、はづかしくもなくよくいへたもんだ、あらゆる暗い運命ははじめつから承知の上ではなかつたのか。不幸な目にあつてゐるのは何もお前ばかりでない、こゝへ來てからだつてお前はすでに多くのさうした不幸をその目で見た筈だ。昨日もお前の筋向ひの房にゐた同志が發狂した。その時の叫び聲はまだお前の耳に殘つてゐるだらう、お前の受けた不幸は偶然的な特殊なものであり、それだけ大
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