いつて五圓あづかつたのでさつき差入れておきましたよ。今夜よそで逢ふとおもひますが、何か言傳てはありませんか?」
 古賀の顏には瞬間ちらりと陰翳《かげ》がさし、複雜な表情が動いたかに見えた。が、それはすぐに消えた。もとの顏にかへつて彼は禮を言ひ、別になにもない、と答へた。永井美佐子といふのは古賀の別れた妻である。
 房へ歸つてくると、暮れるに早いこのごろの日はすでに夕方であつた。からん、からんと、とほくで鐵板製の食器を投げるおとが聞える。雜役夫が忙しげに廊下を走りまはつてゐる。――やがて夕飯がすみ、窓の近くにひとしきり騷がしくさへづつてゐた雀のこゑも沈まつてゆくころには、もうすつかり夜にはいつたらしい。山の湖のやうな、しかし底になにか無氣味なものを孕んでゐる靜寂《しゞま》のなかで、寢るまへの二三時間古賀は自分の考へをまとめようと努力しはじめた。――
 雲のやうにわきあがつてくる思ひのまへに彼はいくどか昏迷しては立ちどまり、自分の行手をふさぐ暗いかげの前におののいては立ちすくむのであつた。息苦しくなると彼は立上つてあるき出し、それからまた坐つた。なんとしても追ひがたくはらひがたいものはしかし、かうした場合、いつも過去の追憶であつた。こゝへ來る人々のすべてがさうなのではあらう、人々は生きた社會生活から隔離され、いきほひ色彩に富んだ過去の追憶の世界にのみ生きるやうに強ひられてゐるのであるから。古賀の場合はしかし、ほかの人々にも増してさうなるべき理由があつた。――彼は自分の短かいしかし複雜な過去の生活にからむあらゆる追憶を丹念にほじくりだし、ひとつひとつそれをなでまはし、舐め、しやぶり、餘すところないまでにして再たびそれを意識の底にしまひこむのであつた。さういふ彼の姿といふものは、いふならば玩具箱からときどき玩具を取出してたのしむ小兒の姿に似てゐたともいへよう。だがやがて彼は過去の世界にのみ生きてゐるやうな、そんな自分自身といふものをさげすむ心になつたのである。しかし生きてゐる人間が死の状態にまでつきおとされ、しかもなほ生きて行かねばならぬとしたならば、さういふ彼を支へてくれる何が一體ほかにあるであらう。苦《にが》い追憶も今はかへつて甘いものとなり、――過去の世界はその度ごとに新らしい感懷を伴つてなほも幾たびかよみがへつてくる。――
 三年前の春のある事件以後、一時的に混亂に陷入つた(原文六字缺)にとらへられた古賀は、(原文二十二字缺)を迎へたのであつた。とらへられた始終のいきさつについては、今(原文二十一字缺)はある。古賀は少くとも自分一個に關するかぎりヘマはやらぬとの自信を持つてゐたのだが、組織の仕事のことゆゑ、ほかからくる破綻といふものは拒ぎきれぬ場合も多いのであつた。他の同志がつくつた場所が、(原文七字缺)とおもひながら出かけても行かねばならず、さういふとき、自分の身の安全をばかり考へてゐるわけにはゆかぬ。思ひつきの便宜主義、――それが古賀の場合、(原文二字缺)を來たした結局の原因であつたが、だがそれも、經驗のすくない若い組織のことゆゑ、やむをえないことであつたらう。さうしたことを今さらおもひかへしてみたとて何にならう、(原文二十一字缺)のだ。古賀はその確信に安んじ、こゝへ來てからの彼は、たゞひたすらに(原文八字缺)はづかしくない態度をとることにのみ心を碎いたのであつた。彼の心の構へはきまつてをり、腹の底は案外におちつきはらつてゐた。古賀はかねてから、腹といひ度胸といふのも、畢竟は時々刻々に變化してやまない外界にたいする、あるプリンシプルのうへに立つたうへでの自己の適應能力にほかならぬ、と信じてゐたのであるが、數年このかた、多くの先輩である同志たちが、次々に連れ去られて行つた、その度ごとにうけた激動と、その激動が次第に沈靜してゆく過程のうちにあつて、さういふ場合に處する彼の心構へも自然にある程度まではできあがつてゐたものであらう、ことさらに氣張り、堅くなつた頑張りではなく、冷やかな落ちつきが、意地のわるいやうなふてぶてしさが、古賀の心の基底をなしてをつたといへる。さうして彼はまたさういふ心を意識してはぐくみそだてたのであつた。事實またそのためには、(原文七字缺)といふものはほかに見出しえようとはおもはれないのだ。(原文五字缺)を毎日目のまへに見せつけられれば見せつけられるほど、それを肥料として(原文十二字缺)心が一日々々(原文二字缺)してゆくのである。あらゆるあまいものを嘲笑し、あたゝかいものをしりぞけ、喜怒哀樂の感情を忘れはてた人のやうな假面のやうな表情で彼はそこに座つてゐた。だがその無表情な假面のかげにかくされてゐる無言の(原文六字缺)人々は容易に見拔くことができたのである。やがては恐ろしさといふものを知らない人間にまで鍛へ
前へ 次へ
全15ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島木 健作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング