うな、又涙ぐんだやうなこゑで、せかせかした口調で話すのであつた。長い間のここでの生活と、彼がつきおとされた運命の苛烈さのゆゑに、すこしは頭もみだれかけて來たものであらうか。頬はおちくぼみ、顎はへんに尖つてゐ、頭はいがぐりなので顏全體がいぢけた子供のやうに小さくしなびて見えた。黒い眼鏡のかげにかくされてゐる兩眼は、おそらくは白濁してうつろに見ひらかれてゐるのであらう。その顏をきつとこつちに向け、しやべつてゐる、唾の白くたまつた口元などを見てゐると、昔この男が颯爽として演壇にのぼる姿を見たことのある佐藤辯護士は、何か凄愴なものをすら感じ、しばしはその言葉も耳にははいらず、言ふべき言葉も知らずただもだしてゐたのである。古賀にしてみればしかし、彼は今よろこびの頂點にあるといつていいのだ。むかしはむしろ無口といはれたはうで、大抵のことはぢつとうちに貯へてだまつてゐることのできる性分の男であつたのだが、目がさうなつてからは本はよめず、手紙は書けず、さうかといつてはなす相手はなし、どこへ向つても心に鬱結するものの捌け口は閉ざされてしまつてゐた。さうしてそれはまたなんといふ苦しみであつたことだらう! さうなる以前の彼はあらゆる費用を節約し、それを一日おきの書信代にあててゐた。ふるい友人、あたらしい友人のたれかれにあてて、彼は根氣よく書いたのである。毎日よむかなりの頁數の書物のノート代りといふこと以外に、そしてまた、外の同志との連絡といふこと以外に、手紙を書くといふことの持つてゐた大きな役割を、古賀はそれを書くことができなくなつたのちに、はじめて知つたのである。手紙を書くといふことは、不自然な生活を強ひられてゐる現在の彼らにとつては、ほとんど唯一の精神の健康法であつたのだ。その唯一のものをうばはれ、鬱結したものの壓力にいまは耐へがたくなつてくると、古賀はいつもぐるぐると房のなかをあるきまはり、頭をそこの壁にうちつけたりするのであつた。そしてたまたま人に逢つて話す機會を持つと、ほとんど見境なくべらべらとしやべりだすのだ。これだけはほとんど自制しかねるほどの欲望であつた。それに今日は、自分のいふことをなんでも聞いてくれる人として、佐藤辯護士が前にあらはれたことが、一層彼のさうした欲望を刺戟することになつたのであらう。――古賀はしかし、しやべつてゐるあひだに、いらだたしげに靴を床にすりつけ、佩劍を鳴らす立會の看守部長の存在にはじめて氣づき、同時に迷惑さうな顏をしてゐるにちがひない佐藤辯護士をおもひ起し、心で赤くなつた。彼は急に話をやめ口ごもりながら、自分の饒舌の詫びをいふのであつた。
 佐藤氏は、「いゝえ」といつて、
「それで、今おはなししたやうなわけでしてね、公判もあと一ヶ月ぐらゐのうちなんですから、その前にあなたにいろいろお聞きしておきたいことがあるんです、今日はそれでお訪ねしたんですが」と用件にはいり、書類をぱらぱらめくりながら、「もつとも個々の事實の點は記録にあるとほりでべつにつけ加へることもあるまいとおもひますが、あなたの今の氣持ですね、つまり心境といふやつです、結局公判廷での態度になりますが、それをお聞きしておきたいんです。」と言つたのである。
 古賀は今までの浮きあがつてゐた氣持からたちまち嚴肅な氣持にひきもどされて行つた。いよいよ來た、といふ感じであつた。と彼は急に心の動搖と不安を感じてきた。公判が遲かれ早かれ開かれることがわかつてゐる以上、公判廷にのぞむ態度といふものもある程度まできまつてはゐた。しかし、その態度の如何といふことは古賀の運命にとつてはまさに決定的なものである。從つて事柄のその重要性の前に知らず知らずしりごみし、いよいよといふ時が來るまで、どこか奧の方に曖昧なものを殘してゐたといふことは否めなかつた。その曖昧さが今彼の心に動搖と不安とをもたらし來つたのである。古賀は心を沈めるために、机の上においた手を額にあて首をうなだれて暫らくぢつとしてゐた。氣持はやがて沈まつて行つた。しかし、今決定的な態度をこゝで佐藤氏の前にのべるといふところまではいかなかつた。彼は顏をあげ、もう少し考へてみたいこともある、十日ほど待つていただけまいかと言つたのである。佐藤氏は氣輕にうなづいて書類を鞄にしまひこむと、ぢやあといつて立上り、「近いうちにまた來ます。無理はしない方がいいですよ。」と、あたたかみのある聲で言つた。その言葉の意味はからだの無理をするな、といふふうにも、無理をして心にもない態度をとるな、といふふうにも聞えたのであつた。
 ドアをあけて外へ出かけた佐藤氏はそのときふいにふりかへつて、「あゝ、忘れてゐた。すつかり忘れてゐた、」といつて、もどつて來た。「今日ね、こゝへ來るまへに永井美佐子さんに逢つたのです。用事があつて行けないからと
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