あげられるであらうなどと、わづかばかりの苦難に耐へえた經驗から思ひ上つてゐたのは笑止で、いくばくもなく古賀はどん底の闇につき落され、はかりがたい現實の冷酷さをいやといふほど思ひ知らされねばならなかつたのである。――ここでの古賀の生活はさういふふうにして毎日平穩にすぎて行つた。すこし氣に入つた本がはいつた時などは、自分が今かうしたところにゐるといふことも忘れてそれによみふけり、巡囘役人の佩劍の音に讀書の腰を折られる時にはじめてわれにかへつて、今の自分の境遇におもひいたる、といふことも珍しくはないのであつた。
 さうかうしてゐるうちに古賀は六ヶ月ほどの懲役に服さなければならぬ身となつた。彼は以前ある爭議に關係し、當時進行中の刑事々件がひとつあつたのである。それがちやうどこんどの新らしい豫審中に確定したのであつた。それは昨年の春のことであつた。豫審中であつたので、そのまゝこゝの未決監にゐて刑の執行をうけることになつた。仕事は封筒はりであつた。
 殘刑期も殘り少くなつた八月の三日のことである。その日は入浴日で古賀は風呂にはいつてゐた。五日に一囘、それも着ものを脱ぐ時からあがりまで十五分しかゆるされないその入浴が、どんなに彼にとつてたのしみであつたことか。その年の夏は四十年ぶりとかの暑さであつた。その暑さはこゝではまた格別だつた、房のなかでは、霍亂を起し卒倒するものが一日に一人はあつた。突然に(原文四字缺)ものもあつた。「お前、梅毒をやつたことがあらうが、かういふ時にや、頭へあがつてバカになるんだ、氣イつけろ」まじめなのか、それともからかつてゐるのか、看守がげらげらわらひながらさういつてゐるのを古賀は一度ならずきいた。この暑さのなかでうだり、健康な人間の肉體も病人のそれのやうに腐りかけてゐた。古賀のゐたのはちやうど西向きの房であつたから、長い夏の日半日はたつぷり炒りつけられるのであつた。古賀は苦しくなると窓によつて脊のびをし、小さな鐵格子の窓にわづかに顏をおしつけて、さかなのやうに圓く口をあけてあへぎながら、少しでも新らしい空氣を呼吸しようとするのであつた。坐つて仕事をしてゐると、時々かるい腦貧血を起した時のやうに目の前がぽーつとかすんでくる事がある。さういふ時には前においてある封筒をはる作業臺の上に思ひつきり額をうちつけて、その刺戟でわれにかへるのであつた。だが、何にも増して彼がそのために苦しんだのはひどい汗もと血を吸ふ蟲とであつた。古賀の身體は、青白い靜脈が皮膚の下にすいて見えるといつたやうな、薄弱な腺病質からははるかにとほいものである。拘禁生活もまだ一年足らずで、若々しい血色のいい皮膚はまるく張り切つてさへ見えたのであるが、それが土用にはいると間もなく眞赤にたゞれてきたのである。しぼるやうに汗みづくになつた(原文四字缺)が粗い肌ざはりでべとべとと身體にからみつくのであつた。夜は夜で汗もにただれたその皮膚のうへを、平べつたい血を吸ふ蟲がぞろぞろと這ひまはつた。おもはず起き上り、敷ぶとんをめくつてみると、そのふとんと蓙《ござ》の間を長くこゝに住みなれ、おそらくは(原文七字缺)の血を吸ひとつたであらう、貪慾な夜の蟲どもが列をみだして逃げまどふのであつた。おなじやうに眠られないでゐる男たちの太い吐息が、その時いひあはしたやうにあちらこちらからもれてくる。――さういふ古賀が、どんなによろこんで五日に一度の入浴を待ちかねてゐたかは想像するにかたくはない。
 疊半分ぐらゐの一人入りの小さな湯ぶねである。古賀は既決囚であつたせゐか、いつもいちばんあとまはしにされ、その日もやはりさうだつた。彼がはいるまへにもう何人の男たちがこの湯ぶねの湯を汚したことであらう。半分に減つてしまつた湯のおもてには、(原文二十九字缺)。足を入れると底は(原文四字缺)であつた。それからなにか、(原文八字缺)のやうなものも沈んでゐるらしく足の先にふれるのであつた。洗ひ場を見ると、そこはまたそこで、コンクリートのたゝきの上には、(原文十三字缺)とくつついてゐたりするのであつた。(原文十二字缺)川のやうな臭ひもながれてゐた。――しかしさういふ不潔さにはもうみんなが慣れてゐたのである。だいいち、不潔だなどといつてはゐられないのだ。古賀もまたさうだつた。古賀はからだをとつぷりとその湯のなかにつけた。ただれた皮膚にぢーんと湯がしみる。無理に肩までつかつてぢつと目をつぶつてゐると、彼はいつもなにかもの悲しい、母のふところにかへつてゆく幼兒の感傷にも似たものおもひに心をゆすぶられるのであつた。――しかしさうしてをれるのも、ほんのわづかのあひだである。「もう時間だぞ、出ろよ」と、擔當看守がそこの覗き穴からのぞいて言つて行くからである。さう言はれてから、古賀はあわてゝからだを洗ひはじめるので
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