ど。丁度おばあさんが起きた時だったので。」
「猫はどいつだい?」
「それがわからないの。あの虎猫じゃないかと思うんだけれど。」
うろついている猫は多かったからどれともきめることはできなかった。しかし黒猫に嫌疑をかけるものは誰もなかった。
次の晩も同じような騒ぎがあった。
それで母と妻とは上げ板の上にかなり大きな漬物石を上げておくことにした。所が猫はその晩、その漬物石さえも恐らくは頭で突き上げて侵入したのである。母が飛んでいった時には、すでに彼の姿はなかった。私は「深夜の怪盗」などと名づけて面白がっていた。しかし母と妻とはそれどころではなかった。何よりも甚だしい睡眠の妨害だった。
そこで最初に、犯人の疑いを、あの黒猫にかけはじめたのは母であった。あれ程大きな石を突き上げて侵入してくるほどのものは容易ならぬ力の持主である。それはあの黒猫以外ではない、と母は確信を持っていうのである。
それはたしかに理に合った主張だった。しかし当の黒猫を見る時、私は半信半疑だった。毎晩そんなことがあるその間に、昼には黒猫はいつもと少しも変らぬ姿を家の周囲に見せているのである。どこからどこまで彼には少しも変ったところがなかった。夜の犯人が彼だとしては、彼は余りにも平気すぎた、余りにも悠々としすぎていた。私はある底意をこめた眼でじーっと真正面から見てやったが、彼はどこ吹く風といったふうであった。
しかし母は譲らなかった。
或る晩、台所に大きな物音がした。妻は驚いて飛び起きて駆け下りて行った。いつもよりははげしい物音に私も思わず聴耳を立てた。音ははじめ台所でし、それからとなりの風呂場に移った。物の落ちる音、顛倒《てんとう》する音のなかに母と妻の叫ぶ声がしていた。
やがて音は鎮まった。
「もうだいじょうぶ。あとはわたしがするからあんたはもう寝なさい。」
「大丈夫ですか?」
「だいじょうぶとも。いくらこいつでもこの縄はどうも出来やしまい。今晩はまアこうしておこう……やれやれとんだ人騒がせだ。」
母の笑う声がきこえた。
妻が心もち青ざめた顔をして上って来た。
「とうとうつかまえましたよ。」
「そうか、どいつだった?」
「やっぱり、あの黒猫なんです。」
「へえ、そうか……」
「おばあさんが風呂場に押し込んで、棒で叩きつけて、ひるむところを取っておさえたんです。大へんでしたよ……あばれて……えらい力なんですもの。」
「そうだろう、あいつなら。……しかしそうかなあ、やっぱしあいつだったかなあ……」
猫は風呂場に縛りつけられているという。母は自分でいいようにするからといっているという。若い者には手をつけさせたがらないのだが、そうでなくても妻などは恐がってしまっている。秋の夜はもうかなり冷える頃であった。妻は寒そうにまた寝床に這入った。
私はすぐには眠れなかった。やはり彼奴であったということが私を眠らせなかった。そう意外だったという気もしなかったし、裏切られたという気もしなかった。何だか痛快なような笑いのこみあげてくるような気持だった。それは彼の大胆不敵さに対する歎称《たんしょう》であったかも知れない。そういえば彼奴ははじめから終りまで鳴声ひとつ立てなかったじゃないか。私は今はじめてそのことに気づいた。すぐ下の風呂場にかたくいましめられている彼を想像した。母はもう寝に行ってしまっている。風呂場からは声もカタリとの物音もしなかった。逃げたのではないかと思われるほどであった。
翌朝母は風呂場から引きずり出して裏の立木に縛りつけた。
「お母さんはどうするつもりなんだ?」
「無論殺すつもりでしょう。若いものは見るものでないといって、わたしを寄せつけないようになさるんです。」
私は母に黒猫の命乞いをしてみようかと思った。私は彼はそれに値する奴だと思った。私は彼のへつらわぬ孤傲《こごう》に惹《ひ》かれている。夜あれだけの事をして、昼間は毛筋ほどもその素ぶりを見せぬ、こっちの視線にみじんもたじろがぬ、図々しいという以上の胆の太さだけでも命乞いをされる資格がある奴だと思った。人間ならば当然一国一城のあるじである奴だ。それが野良猫になっているのは運命のいたずらだ。毛の色がきたないという偶然が彼の運命を支配したので、そんなことは彼の知ったことではない。卑しい諂《へつら》い虫《むし》の仲間が温い寝床と食うものを与えられて、彼のような奴が棄てられたということは人間の不名誉でさえある。しかも彼は落ちぶれても決して卑屈にならない。コソコソと台所をうかがったりしない。堂々と夜襲を敢行して、力の限り闘って捕えられるやもはやじたばたせず、音もあげぬのである。
しかし私は母に向って言い出せなかった。現実の生活のなかでは私のそんな考えなどは、病人の贅沢《ぜいたく》にすぎなかった。
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