黒猫
島木健作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)稀《まれ》だし

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)円形の暗色|斑文《はんもん》が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)もっさり[#「もっさり」に傍点]
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 病気が少しよくなり、寝ながら本を読むことができるようになった時、最初に手にしたものは旅行記であった。以前から旅行記は好きだったが、好きなわりにはどれほども読んでいなかった。人と話し合って見ても旅行記は案外読まれていず、少くともある種の随筆などとはくらべものにはならぬようであった。自分にとって生涯関係のありそうにもない土地の紀行など興味もなし、読んで見たところで全然知らぬ土地が生き生きと感ぜられるような筆は稀《まれ》だし、あるなつかしさから曾遊《そうゆう》の地に関したものを読むが、それはまたこっちが知っているだけにアラが眼につく、そういうのが共通の意見であるようだった。私自身も紀行の類《たぐい》を書きながら、こういうものを一体誰が読むだろう、そう思って自信を失ったおぼえがある。それが今度長く寝ついて、誰よりも熱心な旅行記の読者は病人にちがいないということを信ずるようになった。
 私は間宮倫宗を読み松浦武四郎を読み、菅江真澄を読んだ。ゲーテを読み、シーボルトを読み、スウェン・ヘディンを読んだ。明治以後の文人のものは誰彼を問わず、家にあるものを散読した。そうして幾らもないそれらの本が尽きてしまうと、地理学の雑誌を枕もとにならべさせた。私は地理学の雑誌を何年も前から継続して取っていて、今まではただ重ねてあるだけだったが、この機会にこれらの頁を漫然と繰りひろげていると、これ以上の楽しみはないように思われて来た。
 それの近頃の号にある博士の樺太《からふと》旅行談が連載されていてそれが私には面白かった。そのなかの絶滅せんとしつつある樺太オオヤマネコの話、というのが強く私の空想を刺戟《しげき》した。樺太の大山猫は明治四十一年、大正元年、昭和五年、の三度捕獲されたが、それ以後は絶滅したものと思われていた。それが昭和十六年の二月になって、又も野田という所にとらわれた。この時の奴は雌だった。猟師が猟犬を差し向けると逆に犬の方が追いまくられてしまった。猟師が驚いて鉄砲を構えると、大山猫はいきなり樹の上から下の猟師目がけて小便をひっかけたというのである。私はこの簡単な記事を繰り返し読み、挿入されている大山猫の写真を飽かず眺めた。写真の大山猫は明治大正の頃に捕獲されたものの剥製《はくせい》で、顔つきなど実物とはまるでちがってしまっているという。が、それでも熊をも倒すといわれる精悍《せいかん》さ、獰猛《どうもう》さはうかがわれぬことはなかった。頭と胴とで一米に近く、毛色は赤味を帯びた暗灰色で、円形の暗色|斑文《はんもん》が散らばっているという。毛は長くはないが、いかにももっさり[#「もっさり」に傍点]と厚い感じだ。口は頬までも裂けていそうだ。頬には一束の毛が総《ふさ》のように叢《むら》がっている。髭《ひげ》は白く太い。――しかしその獰猛《どうもう》さを一番に語っていそうなのは、しなやかな丸太棒とでもいいたいようなその四肢だった。足は上が太く、足首に至るに従って細くなるというのが何に限らず普通だろう。足首の太いものは行動の敏活を欠くなどともいわれている。ところが大山猫の四肢は上から下までが殆ど同じ太さで、しかも胴体に比べて恐ろしく太く且つ長い。それが少しも鈍重な感を与えぬばかりか、弾力ある兇猛《きょうもう》な力を感じさせる。彼はこういう四肢をもって殆ど音もさせずに歩く。そしてその足指の陰には熊の剛毛をさえも引き裂くべき、剃刀《かみそり》のような鈎爪《かぎづめ》がかくされている。
 私はこういう剽悍《ひょうかん》な奴が、眼をランランと光らせて、樺太の密林のなかを彷徨《ほうこう》している姿を想像した。樺太全土にもはや一頭いるか二頭いるかわからない、絶滅に瀕《ひん》している、一族の最後のものなのである。何という孤独であろう! しかしそこには孤独につきまとう侘《わび》しげな影は微塵《みじん》もない。あるものはただ傲然《ごうぜん》たる気位である。満々たる闘志である。彼はいかなる場合にも森の王者たるの気位を失わない。万物の霊長たる人間が、鉄砲を差し向けた時、彼は逃げなかった。その最大の武器たる鈎爪を研いで正面から立ち向うことさえもしなかった。彼は人間の頭上から、後肢《あとあし》を持ち上げて小便を引っかけるに止《とど》まったのである! 鉄砲を持った人間などは彼にとってその程度のものにしか値しなかったのである。
 私は思わず破顔した。オオヤマネコは孤独な病者である私に最大の慰めを与えた。私は
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