凜《りん》とした、ひきしまった感じを受けた。殆ど精神的な感動とさえいってよかった。
 同じ記事のなかに海豹《あざらし》島のオットセイの話も出ていて、これは大山猫とは全然正反対な、生めよ殖せよの極致だった。ここにあるものは生殖のための血だらけな格闘だった。私はいつか映画でオットセイの群棲《ぐんせい》を見たことがある。鰭《ひれ》のような手足でバタバタはねる恰好《かっこう》や、病牛の遠吠《とおぼえ》のような声を思い出すうちに本当に嘔吐《おうと》をもよおして来た。膃肭というような文字そのもの、ハーレムという語感そのものが、堪えがたくいやらしかった。

 オオヤマネコに感動してまだ幾日もたたぬうちに、一介の野良猫にすぎぬが、その倨傲《きょごう》な風格において、一脈相通じるところのある奴が我が家の内外に出没することになったのは愉快だった。
 この二三年来、家のまわりをうろうろする犬や猫が目立ってふえて来た。人間の食糧事情が及ぼした影響の一つであることはいうまでもない。生れながらの宿なしもあるが、最近まで主人持ちであったというものも多い。彼等は実にひどく尾羽うち枯らしている。曾《か》つて主人持ちであったものがことにひどい。犬と猫とでは犬の方がひどい。要するに人間に諂《へつら》って暮らすことに慣れて来たものほど落ちぶれ方がみじめなのである。彼等はゴミためを漁《あさ》りにやって来るが、もはやそのゴミためというものさえも人間の家にはないのである。それでも彼等は毎日根気よくやって来ては庭先や台所口をうろうろする。生垣の隅は幾らふさいでも必ずいつのまにか穴になる。百度狙ううちには一度ぐらいは台所のものを銜《くわ》え込《こ》むことができると思っているのだろう。それに彼等は秋の日の日向《ひなた》ぼっこということもあるらしい。彼等を一番憎んでいるのは母であった。庭の畑作りは母の為事《しごと》であり、彼等は畑を踏み荒すからである。
 私はその頃一日に十五分ぐらいは庭に出られるようになっていた。私も庭に出て彼等を見ることは嫌いだった。私はわけても犬を好かない。主人持ちでいた時には、その家の前を通ったというだけで吠えついたこともある奴が、今はさも馴れ馴れしげに尾など振って近づいてくる。それでいて絶えずこっちの顔いろをうかがっている。こっちの無言の敵意を感ずると、尾をぺたっと尻の間にはさんで、よろけるように逃げてゆく。そうして腐った落ち柿などを食っている。猫は彼等ほど卑屈ではないがコソ泥以上に図々しくなってしまった。人間がいることなどは平気で家のなかを狙う。畳の上に足跡をつけて部屋を駆け抜ける。昔を思い出してか座蒲団《ざぶとん》の上に長まっていたりする。そのくせ人間の眼を見ると必ず逃げる。
 そんな時に彼奴が現れたのだ。
 其奴の前身は誰も知らなかった。大きな、黒い雄猫である。ざらにいる猫の一倍半の大きさはある。威厳のある、実に堂々たる顔をしている。尾は短かい。歩き去る後姿を見ると、その短かい尾の下に、尻の間に、いかにもこりこりッとした感じの、何かの実のような大きな睾丸《こうがん》が二つ、ぶらぶらしない引き締った風にならんでいて、いかにも男性の象徴という感じであった。欠点をいえばただ一つ、毛の色だった。それが漆黒であったら大したものだろう。しかし残念ながら黒猫とはいっても、灰色がかったうすぎたなくよごれたような黒であった。その色を見ると、やはり野良猫に成り下る運命にしかなかったかと思わせる。
 彼は決して人間を恐れることをしなかった。人間と真正面に視線が逢っても逃げなかった。家のなかに這入って来はしなかったが、たとえば二階の窓近く椅子を寄せて寝ている私のすぐ頭の屋根の上に来て、私の顔をじろりと見てから、自分もそこの日向にゆったりと長まったりする。私の気持をのみこんでしまっているのでもあるらしい。いつでも重々しくゆっくりと歩く。どこで食っているのか、餓《う》えているにちがいなかろうが、がつがつしている風も見えない。台所のものなども狙わぬらしい。
「いやに堂々とした奴だなあ。」と私は感心した。「何も取られたことはないかい?」
「いいえ、まだ何も。」と家のものは答えた。
「たまには何か食わせてやれよ。」と私は言った。世が世なら、飼ってやってもいいとさえ思った。
 郷里の町の人が上京のついでに塩鮭を持って来てくれた日の夜であった。久しぶりに塩引を焼くにおいが台所にこもった。真夜中に私は下の騒々しい物音に眼をさました。母も妻も起きて台所にいる声がする。間もなく妻が上って来た。
「何だ?」
「猫なんです。台所に押し込んで……」
「だって戸締りはしっかりしてあるんだろう?」
「縁の下から、上げ板を押し上げて入ったんです。」
「何か取られたかい?」
「ええ、何も取られなかったけれ
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