私はこの春にも母とちょっとした衝突をしたことがあった。私の借家の庭には、柏やもみじや桜や芭蕉や、そんな数本の立木がある。春から青葉の候にかけて、それらの立木の姿は美しく、私はそれらが見える所へまで病床を移して楽しんでいた。それをある時母がそれらの立木の枝々を、惜し気もなく見るもむざんなまでに刈り払い、ある木のごときは、ほとんど丸坊主にされてしまったのだ。私は怒った。そしてすぐに心であやまった。母とても立木を愛さぬのではない。樹木の美を解さぬのではない。ただ母は自分が作っている菜園に陽光を恵まなければならないのだ。母はまがった腰に鍬《くわ》を取り、肥をかついで、狭い庭の隅々までも耕して畑にしていた。病人の息子に新鮮な野菜を与えたいだけの一心だった。
食物を狙う猫と人間の関係も、愛嬌《あいきょう》のない争いに転化して来ていることを残念ながら認めないわけにはいかなかった。何か取られても昔のように、笑ってすましていることが出来難くなって来ていた。妨害される夜の睡眠時間の三十分にしても、彼女等にとっては昔の三十分ではなかった。病人の私が黒猫の野良猫ぶりが気に入ったからなどと、持ち出せる余地はないのである。……それに一度こうこらしめられれば彼奴も懲りるだろう、という私の考えなども考えてみればあまいと言わなければならなかった。彼奴は無論そんな神妙な奴ではないだろう。
午後、私はきまりの安静時間を取り、眠るともなしに少し眠った。妻は配給物を取りに行って手間取って帰って来た。私は覚めるとすぐにまた猫のことを思った。母は天気のいい日の例で今日もやはり一日庭に出て土いじりしているらしかった。私は耳をすましたが、裏には依然それらしい音は何もしなかった。妻は二階へ上ってくるとすぐに言った。
「おっ母さん、もう始末をなすったんですね。今帰って来て、芭蕉の下をひょいと見たら、莚《むしろ》でくるんであって、足の先がちょっと出ていて……」
妻は見るべからざるものを見たというような顔をしていた。
母はどんな手段を取ったものだろう。老人の感情は時としてひどくもろいが、時としては無感動で無感情である。母は老人らしい平気さで処理したものであろう。それにしても彼はその最後の時においてさえ、ぎゃーッとも叫ばなかったのだろうか? いずれにしても私が眠り、妻が使いに出て留守であったのは幸であった。母がわざわざその時間をえらんだのだったかも知れないが。
日暮れ方、母はちょっと家にいなかった。そしてその時は芭蕉の下の莚の包みもなくなっていた。
次の日から私はまた今までのように毎日十五分か二十分あて日あたりのいい庭に出た。黒猫はいなくなって、卑屈な奴等だけがのそのそ這いまわっていた。それはいつになったらなおるかわからぬ私の病気のように退屈で愚劣だった。私は今まで以上に彼等を憎みはじめたのである。
底本:「昭和文学全集 第32巻」小学館
1989(平成元)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「島木健作全集第11巻」国書刊行会
1977(昭和52)年
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2001年12月21日公開
2005年12月22日修正
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