ある。……
ふたたび表の戸が開く音がし、すぐに一人の男があがつて來た。見上げるやうに高い、横もがつしりとした男である。
「ああ、小泉、」
と低く叫んで杉村はその方へ走り寄つた。
「どうしたんだ。何をしてるんだ。灯りもつけんで。」
灯りがつき、彼らは白い光りのなかに複雜な感情のこもつた眼と眼を交した。小泉はそこに立つて、自分の肩ほどの仲間の顏を見下すやうにして、一人々々ぢつと見据ゑた。彫りこんだやうに凹凸の深い彼の顏はいつも變らぬ靜寂を湛へながら、その眼の輝きはさすがに押へ得ぬ興奮を示してゐる。みるみるその顏に血がのぼつた。どんな感情が仲間たちをとらへてゐるかを見拔いたのである。鋭い聲が威壓する力に滿ちて彼の口をもれて出た。
「何をくだらんことを考へてるんだ。何一つまだ終つてやしないぢやないか。はじまつたばかりだ、……しなけりやならん仕事はわかつてゐる筈だ、みんなすぐ部署につくんだ。」
まつすぐに部屋のまんなかに進み、てきぱきした事務的な口調で彼はつゞけた。
「今後の連絡、會合についての打合せをしみんなそれぞれの責任地區へ歸るんだ。勝つても負けても選擧の結果報告のための、部落の集會、演説會の開催は豫定どほりだ。今度の選擧中の事實にもとづいた暴露材料は、いま縣本部で印刷してゐる。明日の午後には屆くだらう、……それから××反對の示威運動は必ずやる。その具體的な計畫はこれもほぼさきに打合したとほりだ。今晩これから本部で開く常任委員會で最後的決定をする。日取はその直前まで發表しない筈だからみんな動員組織をしつかり固めておいてくれ。」
そして彼は靜かにそこに坐つた。常任委員會の代表としての自分と、各地區の書記との間に二三の打合せをするためにである。
彼らは小泉につづいて坐り圓形をつくつた。今までぼんやりしてゐた彼らの顏はよみがへつたやうになり、自分自身を取り戻して見えるのであつた。民衆の投票をめぐつてのたたかひをいつのまにか當選か否かといふことにのみ限つて考へる考へ方にずり落ちてしまつてゐる自分たちを見直した。彼らは俄然あたらしく展開され來つた情勢を見た。そしてそのなかにはどう處して行かねばならぬかについて自覺した。信頼しきつたものにたいする從順さで、小泉のいふところに從ひみなそれぞれの意見をのべ、何を爲すべきかについて決定したのである。短い時間でそれがすんだ。彼らは立ち上り、ずり落ちた洋袴を引きあげしつかと革帶をしめ、帽子を眞深にかぶり、あわただしく階段を下りて外へ出て行つた。――
最後に殘つたのは小泉と杉村とであつた。
「今晩は?」と小泉が内かくしから何か小さく折りたたんだ紙をとり出し、杉村に手渡しながら訊いた。
「うん、九時から支部長會議をやることになつてゐる、」と杉村は答へ、受けとつたものを靴下のなかにおしこみながら、ここ一週間逢はなかつた小泉の顏をすぐ眼の前にしげしげと見た。かうしてまぢかに見ると、線の深く刻みこまれた顏だけにさすがに疲勞のあとが色濃くあらはれ、彼の心勞をなしてゐるものの何であるかが一目で知れるのある。二人は彼らだけで話し合はなければならぬ事柄について簡潔な二三の言葉をかはした。押しあひ、ひしめきながら奔騰してくるものをうちに感じながら、杉村は辛うじてそれを咽喉のあたりでせきとめた。個人的には小泉と自分とによつて代表され、――しかしそれはもとより彼ら二人のものではなく、一つの組織のものである、意見、方針にたいする不滿と非難とを思ひつめた言葉でいひ現さうとしたのである。それは從來とても漠然とした形で杉村の内部に芽生えてゐた、今その方針の明かな失敗を語る事實を見るに及んでそのものはにはかにはつきりとした形をとるにいたつたのである。だがそれを言葉にして投げつけることを許しはしない冷然たるものを小泉の顏に杉村は見た。彼は眉一つ動かさうとはせぬ。(奴はまた強引に押し切らうつていふんだ!)小泉は何らの相剋するものを自分の内部に感じてはゐないのであらうか? 敗けたこと自體は問題ではない、ただそれがもたらす影響が一つのおそるべき方向をとつて來るときは……
突然ある不吉な考へが芽生え、それはみるみる大きなものになつて行くのであつた。小泉はもう杉村の存在は忘れたもののやうに手帳をひろげ何か心覺えを書いてゐる。
「ぢやあ、」といつて杉村は立ち上り、階段のところまで行つてちらりと小泉の方を見た。何か心惹かるるものがあつたのである。下へ下りてみると留守居の青年が前後不覺に眠つてゐる。外は暗く風が吹き荒んでゐた。自轉車を走らせ半町ほど行つてふりかへると、高臺の家はちやうど灯りを消したところであつた。
表戸をあけ、土間を見ると足の入れ場のないほどの履物である。これは意外だつた。時刻は遲いし、今日の集りは半分投げてゐたのにと
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