市の公會堂をそれにあててゐる開票場から、二時間前に彼らの傳令が持ち歸つた結果が表になつてそこに貼られてゐる。島田信介四千六百八十五票! 彼は次點者である。當選圏内の最下位者政友會の中川誠也とのひらきは三百票にすぎない。そのときから二時間後の今までの間にそのひらきにどんな變化が生じてゐるかが問題なのだ。そのひらきが埋められ、さらにその上に飛び拔けうる見込みでもあるといふのか? それがあるのだ。願望が描き出すあさはかな幻影ではなくて、現實にそれが滿さるべき充分な根據があればこそ、彼らのおもひはいよいよ一つの方向に驅り立てられずにはゐないのである。報告のもたらされた時の開票にはまだ數ヶ村が殘されてゐた。前田郡の小島、添山、前川の三ヶ村がそのなかにはいつてゐる。その三ヶ村は島田がその代表として選出された無産者黨の母體をなす、事實においては一身同體といつていい貧農組合の壓倒的な地盤なのだ。小島の、添山の、前川の、有權者數合せて××人。そのうち組合員××人はたしかだから……。横になつてゐた一人が急に起上つた。かくしをさぐり、鉛筆と手帳をとり出した。さつきから何囘目かの、豫想を文字にして紙の上にならべるたのしみにまたふけらうといふのである。
 屋上をわたる風が遠くへ落ちて行く。又それが來るまでにはちよつとの間のとだえがある。そのとき家の前の道路の上にずずずーつといふもののすれ動く音がきこえた。かたんといふ何かの音とそれにつづいて人の足音がする。自轉車だな、と聞耳をたてたとたんにもう滑りのいい表戸が開いた。
 喊聲をあげて四五人が、一つの塊になつて狹い階段をかけ下りた。――
 口々に何ごとかをいひながら肩にかけんばかりにするその手をはらひのけるやうにして、賀川服の若ものが先頭になつて階段をあがつて來た。どうだつた、結果は? とすぐうしろにつづく男がいつてゐる。ちえつ、勿體ぶりやがつて、と最後に階段を上つた一人が低くつぶやいた。
「杉村?」
 若ものは眼で探した。鼠いろのヂヤケツの青年がすぐその前に顏を出した。内かくしから出した紙きれを彼の手に渡しながら、
「敗けた、」
 と低く一言だけいつた。
 多分に危惧を孕む事柄の成つた大きな喜びの前には往々何らかの技巧が行はれがちである。事實をまつすぐにそのまま投げ出さず、一時は反對のものに見せかけてそれのもたらす喜びを益々大きなものにしようとする、さういふ場合が多いが、ましていま報告を持つて來たのは二十まへの若ものでふだんからいたづらいたづらした眼がよく動くのであつた。人々はさういふ彼に期待し、彼のいつた一言とはまるで反對のものを讀みとらうと、その目もと口もとに見入るのであつた。すぐにもそれがほころびはじめるであらう……だが若ものの表情はいつまで經つても硬いのである。
「ふうん……さうか。」と杉村は手にした紙きれを見ながらいつた。みんなどつと彼によりそつて來、肩と肩とをすり合すほどにして彼の手許に見入つた。とふいに杉村はある種の感動のこもつた叫びごゑをあげた。「どうしたんだ、こりや、……敗けたのは仕方がないとして島田は次點でもないぜ、島田は山内に敗けてるんだ。山内の奴、どうしてこんなにのしたもんだらう。」それから、讀むぞ、といつて彼は讀みはじめた。――
 聞き終つて彼等は聲をのんだ。豫想とはあまりにみじめな相違だつた。最後にものをいふ筈であつた、かの三ヶ村の票數はどこへ行つたか、農民派と稱して二大政黨とは中立で立つた山内が最初微弱な勢力でありながら、なぜに最後に近づくに從つて次第にピツチを上げて來、つひには島田を凌ぐにいたつたか、彼らはそれらについて今はもう何を考へて見ようともしなかつた。急に忘れてゐた疲れが以前に倍したいきほひで襲ひかかつて來た。考へ、動く、あらゆるはたらきをやめてこのままずるずると泥沼のやうな眠りのなかに身を落してしまひたかつた。その場所をもとめるかのやうに彼らはあらためて部屋のなかを見まはした。日がおちると闇の這ひよる足は早かつた。暗くなつた部屋のなかは今朝ものを片づけ、掃除をしたままの姿である。筆や墨汁や、紙の類は片隅によせた小机の上におかれ、謄寫版は久しぶりに箱のなかにをさめられてこれも片隅にあつた。中央には火の消えた火鉢が一つ、燒きすてた反古紙の灰が山をなしてゐる。まる一ヶ月のあひだの足の入れ場もない亂雜を見慣れた眼には、がらんとした部屋の廣さは妙に寒々とした感じである。はげしい言葉を書きつらね、赤インクで彩つたポスターが風にはたはたと音をさせてゐるのを見た時、過去一ヶ月の餘にわたる苦鬪の跡が一瞬のうちに彼らの腦裡をかすめた。すべては無駄な努力に終つたのかとの實感は理窟を越えたものであつた。殘るものはただえたいの知れない暗がりに身心をひきずりこむ抵抗しがたい虚脱感あるのみで
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