一過程
島木健作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)面《つら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)春|耕《おこ》し

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
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 夕やけが丘の上の空を彩りはじめた。暮れるにはまだ少し間のある時刻である。部屋のなかはだがもううす暗く深い靜けさにひそまりかへつてゐる。十人にちかい男たちがこの二階にありとは思へぬ靜けさである。風が出て來たらしい。寢靜まつた夜などはその遠吠えの音がきこえもする海の上を渡り、さへぎるもののない平地を走つてこの高臺の一軒屋にぢかに吹きつける二月の寒風である。はげしく吹きつけ、細目にあけた窓の隙間からはいる餘勢に壁に下げた何枚かのポスターがかさかさと鳴つた。人々は寒さにふるへ、しかしなにか縹渺としたおもひを誘はれながら、屋鳴りをさせて遠く吹き拔ける風の行方にぢつと耳を傾ける。――
 誰も立上つて灯りをつけようとするものもない。壁によりかかり、言ひ合したやうに膝を立ててその上にうつぶしてゐるもの。長々と横たはり仰向けになつて眼を閉ぢてゐるもの。どれもこれもぢつと動かずにゐる彫像のやうな彼らの姿態は、そのまま過去一ヶ月の餘にわたる精根を傾けつくしてのはげしい生活を物語り顏である。口を開くもものういほどに疲れ切つてゐるのであらう、だがそれにもかゝはらずこの部屋の隅々にまでも行きわたつてゐる何か張り切つたこのけはひはどうだ。事實、ものいはぬ彼らの胸はたつた一つの共通の期待に、――のるかそるか當面のすべてをそれにかけて悔いなかつたその期待にいまふくれ上り、はち切れんばかりになつてゐるのだつた。何か言ひ出してみることはこの際妙に控へられる氣持だつた。かうしてゐるあひだにも時はしだいに迫りつゝある。その最後の時のために、逸り猛つてくるものをぢつと引き締め、溢れ來る感情をひた押しに押さへてただもだしてゐるのである。はじめからあてには出來ぬ期待なら、氣も樂であり、問題はなかつた。事實最初は力の限りたたかつて見ること自體に意義をおき、必ずしもそれの勝敗に執着はなかつたのである。だが中頃状勢は思ひもかけぬ好轉を見せ、時が迫つて來るにつれて阻むものなき一つのいきほひをさへ示したのであつた。それは上げ潮のひた押しに押して來る姿に似てゐた。はじめは誰でもが捨てて顧みなかつたものだけに、今にはかに現實にそれがつかめる見込みがついたとなるとそれだけ逃してはならぬそれへの執着は強く大きかつた。ただそのいきほひで最後の瞬間まで押し切り得るかどうかが疑問だつた。その疑問がいま明らかにされようとする直前の、この息づまるやうにいらだたしい切迫した感じである。
「ちえつ、遲いなあ、一體どうしたつていふんだ。」
 うつぶしてゐた一人がふいに顏をあげると、つひに堪へかねたらしい聲を太い溜息とともにあげた。同時に部屋のなかがにはかにざわめきだした。緊張が破れ、ほつとした氣持に息づき、すると急に活々とした多辯が人々をとらへはじめるのであつた。
「もうわかつた頃だと思ふんだがな。」と一人が腕をあげて時計を見ながらいつた。「開票のすつかり終るのは何時の豫定なんだ。」
「四時頃の筈だが――しかし少しはおくれるだらう。」
「今頃は傳令の奴、いいニユースを持つてやきもきしながら自轉車を走らせてゐるよ。」と一人が笑ひながらいつた。
「おい、みんな行かう。」とふいに大きな聲でいつて荒々しく音を立てて立上つた男がある。それまで部屋のまん中に長々と寢そべつてゐた一人である。立上ると彼はやにはに腕をふりはじめた。
「ぢつとこんなにして、馬鹿みたいに面《つら》をつき合していつまでも居れるもんか。みんな行かうぜ。開票最後の素晴らしい場面が見られないのは癪ぢやないか。」
「行かうか。」と二三人實乘つて來た。
「そりやだめだ。」と若いしかし落着いた聲がおさへるやうにいつた。鼠色のジヤケツの男である。
「なぜだ。」
「なぜつて、事務所をガラ空きにするわけにやいきやしない。」
「だからよ、一人留守番をおいて行きやいいぢやないか。」
「子供みたいなことをいふなよ。俺たちが今ここに待機の姿勢でゐるのはなんの爲だ。おそかれ早かれ結果がわかるんだ。その結果にもとづいて方針を立てて一刻も早くそれぞれの責任地區に向つてふつ飛ぶやうにするためぢやないか。」
「ふん、もつともなことをいひやがる。」と彼はまたそこにごろりと横になつた。「まるで御馳走を前にしてお預けの形だな。」
 人々はみんな聲をあげて笑ひ、同時に彼の最後の言葉に思ひ出したやうに壁の一方を見やるのであつた。四里はなれた
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