思ひ、大西がうまくやつてくれたのだなと思ふと、たのもしくありがたい氣持だつた。自轉車を狹い土間に引き込み、ゴトゴト音をさせてゐると、二階から下りてくる音がし、中程に足をとめて、「誰あれ?」と上からもれる明りにすかして見てゐるやうであつたが、僕、といふと、ああ、杉村さん、と大西が下りて來た。
「御苦勞さん、みんな集つた?」といつて段にのぼらうとする杉村にパツと飛びつくやうにしてその手をしつかりとおさへると、ものをもいはず、ぐんぐんもとの入口の暗がりの方へ引つぱつて行くのである。どうしたんだ。どうしたんだ、といひながら杉村はついて行つた。
「杉村さん、敗けたんだつてね。」と低いささやくやうな、しかしひた押しに感情をおし殺さうと焦つてゐる聲である。
「敗けたよ、仕方がない、それで……」
「弱つたなあ、杉村さん、」
「ええ?」といつて杉村はなんといふことなしにどきんとした。
「組合は割れるね、わるくすると。」
「なんだつて、」
「まるで沸いてるんだ、二階の連中は! 一杯機嫌でやつて來るのが多くつてねえ、すつかり不貞腐れてゐるんだ。だからいはんこつちやない、土地のものをナメやがつて選擧なんかに勝ててたまるもんかい、ざまア見ろつて惡口雜言さ。敗けたのを口惜しがつてゐるどころか痛快がつてゐるんだ。むしやくしや腹をどこにも持つて行きどころがないもんでわしひとりにつつかゝつて來る始末さ。今晩の會議なんてとてもものにやなりませんよ。先生は顏を出さない方がいいかも知れない。やつぱり失敗だつたかなあ、杉村さん、地元から立てずに島田さんを立てたのは……」
「默れ! 餘計なことをいふな。」といきなり杉村は呶鳴つた。意外な彼の興奮におどろいて大西は口をつぐんでしまつた。
 その暗闇のなかにだが杉村は顏いろを變へたのである。おそれてゐた不安がこれほどまでに早く現實のものとして迫つた來ようとは思はなかつた。あたりはしーんとし、耳を澄まして聞くまでもなく、二階で何かののしり笑ひさざめいてゐる聲は明らかにいつもとはちがふのである。……杉村は逡巡した。がすぐ氣を取りなほし、今來た、といつた氣輕さをよそほつてとんとんと階段をのぼつて行つた。うしろで大西が何かあわただしく小聲でささやいたやうである。
「やあ、失敬々々、すつかりおくれつちまつて。」
 と障子をあけるなり杉村はいひ、わざと無雜作にそこに鞄を投げ出した。何ごともなかつたふうに平氣をよそほひ、何ごとにもこだはらぬ態度を全身をもつて示してゐるのだが、顏の筋肉が硬ばり、へんにゆがむのをどうすることもできなかつた。
 障子をあけた瞬間になかでの話はひたと止んだ。杉村はそこへ坐つたが誰もものをいひかけて來るものはない。廣くはない部屋に膝をつき合して向ひながら、一口もいひ出すもののないほどの氣づまりはない。おそろしい暗默の敵意である。どつちか先に口を切つた方が敗けであるやうな沈默の抗爭である。――杉村が敗けた。
「今日は馬鹿に集まりがいいね。……今晩は會議の形式はとらずに選擧の結果についてお互ひに意見を述べあひ、今後の對策について相談しあはうぢやないか。敗けたものはまア仕方がないとして。」
 いひながら刺すやうな多くの視線をからだ一杯に感じ、それまでうつむいてゐた杉村はそのときはじめて顏をあげて一點を見た。かつちり視線の合つたのが、ほぼ正面に坐つて、臆することなく眞直ぐこつちに顏を向けてゐる石川剛造であらうとは! 勝利と侮蔑と嘲笑と憎惡との錯雜にゆがんだ表情は、復讐の快さのうちにふしぎな統一を見出してゐる。杉村は今はとめどもなくべらべらとしやべり出すことでおのれの氣弱さを蔽はねばならなかつた。だがそれに應じてくるものは一人もなく、しかし彼らは彼らだけの言葉と表情で勝手にしやべり始めたのである。――
「まるまる一ヶ月まで阿呆な暇だれをしてしまうたのう。」
 ほーつと肩でする思はせぶりな太い息と共に吐き出したのは、組合の政治部員と黨の幹部を兼ね、今度の選擧には辯士隊の一人であつた山田三次である。
「山田なんざあまだいいわ。もともと口が達者で演説が飯より好きに出來とる男ぢやてのう。今度といふ今度こそはしつかとたんのう[#「たんのう」に傍点]するまでしやべつたやらうに。第一やることがはでぢやわ。――わしを見んかい、わしを! 一日ぢう机の前に坐らせられてよ。鋤鍬持つ手に筆を持つてよ。飯代がいくら、人夫賃がいくら、紙がいくら、墨がいくら、何がいくらかにがいくらと帳面つけぢや。それがてんでお日さんにも當らずとまるまる一ヶ月ぢや。毎日歸るじぶんにや、足が痺れて棒のやうやつたわ。それでも勝てるか思へばせいも出た、敗けたんぢやつまらん。」
 選擧事務員であつた川上直吉がさういひすててごろりと横になつた。
「まあ、さういふな川上、お前の手蹟《
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