て》のいいのを見込まれたのが因果ぢやと思へ。百姓にやもつたいない手蹟ぢやけに。」
「ほめてもらうておほきに。」と川上は笑つた。
「日當は帳面の上だけの事やて一文にもなりやへんし、選擧にや敗けるし、――あーあ、ほんまにおれも田中みたいに政友會の辯士さやとはれてしこたまもらへばよかつた。こななことになるんやつたら、裏切者になつたかてそれが何ぢやい!」
最後の捨鉢的な一句には、ふざけたなかにへんに眞に迫つたものがあり、みんな何かを考へさせられた面持である。
ひとり完全に取り殘されたかたちの杉村は、持つて行きどころのない眼を部屋の片隅にうつした。と、彼はそこに意外なあるものを見てにはかにけはしい面持に變つたのである。そこの瀬戸の火鉢には藥罐がかけられ、今はじめてそれと氣づいたのだが、田舍によく見る口の平べつたく大きな三合入りの銚子がその中につけてあつた。しんしんと鳴つて湯はたぎり、なかの銚子がゴトゴトと低い音をたててゐる。部屋へはいるとすぐに鼻をついた酒の匂ひは、彼らが外から持つて來たもののほかに内からのものがあつたのである。事務所備付けの湯呑みがそのあたりに亂れ、もういいかげん色づいた三四人が火鉢を圍んでゐる。
「君、そりやどうしたんだ!」
思ひもかけなかつた事柄が人々と杉村とを相語らしむるきつかけとなつた、はげしくいつてしまつたあとで、杉村はさういふ自分の不幸を思つたが遲かつた。暗默の敵意はこの偶然のつまらない事柄をなかだちに、今は公然のあらはなものになつて了つたのである。
「組合の事務所で酒をのむことだけはうやめたらどうかね、ええ、君、事務所でだけはお互ひにだらしのないまねはしたくないんだ。一般組合員にたいする影響も考へなくちやならないからね。事務所で何か祝ひ事でもした時はそりや別だ。しかし今日はみんな會議に集まつたんぢやないか。」
「ああ、ああ、わかつとりまさあね、そななことあんたにいはれんかて。」
憎々しげにそのうちの一人がいひ放つた。顎をつき出しうすら笑ひをさへうかべて。何といふ不貞腐れかげんであらう。杉村はさすがに周章し、狼狽した。從順な飼犬がたちまち牙をむき出すのに逢つたおどろきであつた。
「わしらは今日は何も會議に集まつたんぢやありません。祝ひ事に集まつたのやよつて一杯くんどるんぢや。」
「祝ひ事?」
「さうや、」
にやりと笑ひ、氣を持たせるやうにちよつと間をおき、
「組合の解散祝や。」
とずばりといつてのけ、そしてくつくつと聲をたてて笑ふのであつた。
一座の冷やかな視線のなかに杉村は蒼くなつた。親愛な仲間はいつの間に忽然としてこの惡意に滿ちた敵に變つたものであらう……おちつかねばならぬと杉村は思つた。興奮してはぶちこはしである。何事を追求してみる要もない。今晩のこの集會は流してしまはう。選擧については觸れず、しばらくはこのままそつとしておくのほかはない……しかし彼のその意志に反して向うが切り込んで來たのである。
「杉村君、」とそのとき山田三次がいつた。何か改つてものをいふ時には君《くん》づけにし、標準語でものをいふのがかつて巡査であつたことのあるこの男の癖である。
「選擧の結果について意見を述べあふやう、あんたはさつきいひなすつたが、あんた自身こんどの選擧の慘敗の原因は一體どこにあると思ふかね?」
「そりや、いろいろな原因はあるが……」
「ふん、いろいろな原因はあるが、その第一は(原文五字缺)でつぎは大衆の無自覺か。相變らずね。杉村君、君らはふだん自己批判々々々々て口癖のやうにいつとるが、結局自分に痛くないやうな批判しかやらうとはしないんだ。今度の選擧の慘敗の原因だつて、今となつては君らにもちやんと氣づいてゐる筈だ、それを知つてゐながら、以前にいつた言葉の手前、率直に認めるほどの勇氣がないんだ。敗けた原因はほかにはない、そもそもの出發點にあるのさ。島田信介を候補者に立てたといふ點にあるのさ。島田信介だなんて、そりや黨の幹部でもあり、えらい人間でもあらう、けど君、ありや全くの他國人ぢやないか。島田はこの縣に何のゆかりがある? この地方の人間と何の馴染がある? そんな人間を立てたかて勝つ見込みのないのは最初からわかつとる。だからわしらここにゐるものの大半はそれに反對したんだ。そしてあくまでも土地のものを立てることを主張し、この地區のみならず、縣全體としてももつとも古い農民運動の功勞者として石川剛造君を推薦したんだ。」そこで彼はちらりと横目ですぐ側の石川剛造の顏を盜み見た。石川は依然身動きもせずぢつとこつちを見つめてゐる。「それを君らが日和見主義だとか、當選第一主義だとかなんとかいつて反對してさ、阿呆らしい、當選を目的にしない選擧運動がどこにありますかい。そして書記會議で何から何までお膳立てをして中央委員を
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