と名乘り、赤革の鞄をひらき何かを探つてゐたが、一枚の紙を取出すとそれを擴げ、突然杉村の前にぐつとつきつけた。そして杉村の眼のなかにぢつと見入り、無言でゐる。杉村の顏に動く表情のどんな瑣末な陰翳をも見逃すまいとの意氣組である。
「どうだ、おどろいたか、もうこれだけわかつてるんだ。」
 どぎもをうばひ得たつもりなのであらう。そこで彼ははじめてにやりとわらひ、煙草を口へ持つて行つた。杉村は眼の前にひろげられた紙を見た。美濃紙二枚ほどの大いさである。中央に長方形が描かれ、ある組織の機關名と括弧して人の名とが書いてある。その長方形はたくさんの線で、周圍の圓形や四角形に結合され、その各々には同樣に機關名と人の名とが記されてゐる。赤いアンダーラインのしてあるその一つを、相手はだまつて指でついた、杉村はそこに自分と小泉の名を見た。
「どうだ みんな言つて了ふかね?」
「ええ……」とちよつとためらつたのちに、「少し考へてからにしませう。」といつた。
「ふん、」と彼は鼻を鳴らした。「鐵の規律か、――それもよからう。だが君は手※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しがよかつたな。感心したよ。」
「え、なんですか。」
「白つぱくれるな!」と彼はそこではじめて大きな聲を出し、とんと机をうつて見えを切つた。
「何か一枚ぐらゐおれや出るかと思つたよ。ところがどうだ。掃き清めたやうにきれいなもんだ。合法出版物のはてまですつかり(原文四字缺)ゐやがる。覺悟してゐたんだな。――だがまあいい、證據物なんざあ何もいらんよ。今更な。」彼はうそぶき、あざけるやうな笑ひをもらした。
 え、なんですか、と聞き、そのときは事實彼のいふところを解しかねてゐた杉村は、この數瞬間にすべてを理解した。――(原文二字缺)をもはばからず感動のために彼は泣けさうになつて來た。
「どうだ、いふかね。」と又きいた。
「今日はいひたくないんです。」とこんどはきつぱり答へた。
「さうか、それもいいだらう。――ぢやあ根くらべと行くとしようか。」
 よろしい、根くらべでもなんでも、と昂然として杉村は答へたい氣持であつた。張りつめてゐた心がゆるみ、最初は嘘のやうな、夢のやうな氣持でただぼんやりしてゐたが、しだいに腹のしん底からの勇氣が溢れて彼を滿した。この一ヶ月間の苦惱と疲勞とが、ほんのみじかい時間のうちに除かれてしまつてゐた。何が來ようと今はそのものに體あたりでぶつかつて見せる氣力の充實を彼は感じた。
 それにしても誰の仕事だらう? 大西かな、木村かな、と親しみ深い青年たちの顏を杉村は思ひ出してゐた。捕へられた日の朝、杉村は一通の文書を受けとつたのである。讀んで短い時間のうちに處分しなければならぬ文書だつた。しかし彼はそれを讀み、何かの方法で心おぼえに書きとめておきたい内容をその文書に見た。すぐにそれを果すべきではあつたが、演説會の時間が迫つてゐたので、封筒のなかに入れ、ある所にしまひこんで彼は家を出て行つた。めつたにない不注意を犯して了つたのは、そこの演説會をすますと一度歸つて來るつもりであつたからだ。捕へられてしばらくは、尋常一ぺんの檢束とたかをくくつてゐたからであらう、彼はそれについて餘り考へもしなかつた。しかしすぐに彼らの檢擧の眞の性質を知つてからは、夜も晝も絶え間なく彼を責めさいなんだものは許すべからざるさきの日の不注意だつた。それを思ふだけで杉村の滿身の血は凍つた。事務所は當然荒されてゐる筈である。もしもあれが人手にはいつたら!
 不安にをののきながら一日も早い取調べをその爲に彼は願つた。そして今彼はすべてがかつて思つても見なかつたほどに有利に解決されてゐることを知つたのである。青年のうちの誰であらう? 彼はふたたびそれを考へた。彼が捕はれ、事務所が荒されるまでにはほんのちよつとの隙があつたにちがひはない。その隙に乘じての青年たちの敏速な行動であつたのである。それにしても彼はかつて自分が青年たちの知らない組織の一人であることを明したことはなく、ましてさういふ場合の處置について依頼したことはなかつたのだ。それだけに感動は大きく、こみあげて來る熱いものをせきとめることはできなかつた。――
「まあいい、今日は歸れ。」
 内田の聲に杉村は囘想を斷たれた。内田が立つたので彼も亦立つた。立上つた内田は何か考へてゐるふうであつたが、ちよつと待て、といつて次の室へ行き、風呂敷包みを一つ下げて戻つて來た。かなりの嵩のものを机の上にどさり、とおき、
「大西つて知つてるだらうな?」
 と訊いた。
 今はくらべもののないほどの大いさで彼の心を占めてゐるその名をふいに指され、杉村は思はずぎくりとした。きつとした心で顏をあげた。それには一向氣づかぬらしく、内田は自分で風呂敷包みの結びを半分ときかけながらつゞけた。
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