る。長い間彼らは何のために自分たちがこゝへ連れて來られたかを知らなかつた。それを今日の晝になつてやうやく知つたのだ。はじめ二日か三日で出れるものと人もいひ自分も信じてゐたのに、それが十日二十日とつづきしかも何らの取調べもなく過ぎたとき、彼らの不安と焦躁とはしだいに大きなものになつて行つたのである。何よりもいけなかつたのは、彼らが生れおちるときから[#「ときから」は底本では「とから」]、手足を動かさずにゐた日が數へられるやうな人間であつたといふことだ。全身をもつて働きつゞけることのなかに樂しみをも苦しみをも見て來、坐つてものを考へるなどはおよそ肌に合はないことだつた。最初の二三日彼らは互ひに顏をつき合せてボソボソと何か話し合つた。だがふりかへつて見れば、單調な一本道を十年一日のごとくあるきつゞて來たにすぎない各自の生活を、彼らは知り盡してゐるのである。話題はすぐにも盡きてしまふ。はなれて見るとやたらに土がなつかしく、晴れた青空を見ては春|耕《おこ》しを思ひ、耕作がおくれるといふ考へに心を灼いた。――やがて何日間か過すうち、彼らの肉體と精神は何か調子の狂つたものになつて行つた。考へるべき對象を失つた頭には暗い穴のやうなものがあき、働きかけるべき對象を持たぬ手足は急速に彈力を失つた。あるものはそれをかなり鋭く自覺したし、あるものは自ら意識せず、視線の向け所に迷つてあらぬ方を見つめてゐる濁つた眼つきや、妙にべたついて見える立居ふるまひにそれを示した。白晝何ものもない壁を見てゐてくすくす笑つたり、袖で鼻や顎のあたりをやたらにこする仕ぐさをして見たり、夜は何か叫んで突然とび起きたりするものが段々ふえて來るのだつた。――
それが今日はじめて引き出され、はげしい言葉で立て續けに問ひつめられたとき彼らは相手の顏をいつまでもまじまじみつめてゐるばかりだつた。わづかに事柄が杉村に關するものであることを知つたが、杉村がやつたと推察され、そのために自分たちまでが追求されてゐる事柄は、彼らにはまるで無縁な餘計なこととしか思へなかつた。何を問はれてもただ無意味に頭を下げ、相手を忘れて杉村への怨み言を口ごもりつゝかきくどいた。その部屋を引下るとき彼らの一人がおそるおそる尋ねた。明日は出していただけますか? 問はれた紳士は、はつはつと大口を開いて笑ひ、言つたものである。今年ぢゆう一杯だ! 足が腐る迄も居るがいいわさ! 夢中で歸つて來た彼らはしばらくは足がふるへて立てなかつた。ほんのちよつとの間でも外の空氣に觸れ、出られると思つた出鼻を挫かれると、失つた自由の壓力が二重の強さで迫つて來、物狂ほしいほどの心になるのだつた。やがて落着きを取戻して來るにつれ彼らの、憤怒はたつた一人の人間に、――彼らをこのみじめな状態につきおとした責任者に向つて燃えたのである。彼奴はどこにゐるだらう。何でまたおれたちは彼奴のためにこんな目にあはなけりやならないんだ!
その杉村が今突然彼らの前に姿を現したのである。
しをれ切つた姿で杉村はもとの場所へ歸つて來た。そこへうづくまりしばらくはぢつと動かずにゐた。いひ知れぬ寂寥がうちからうちからとせきあげて來た。それはかつて味はつたことのないものであつた。彼らのあの眼なざしほどに今の杉村をぶちのめすものはない。あらゆる種類の困難には勇氣をもつてあたることができる。その勇氣はだが單に杉村の肉體にのみ依存するものではない。杉村その人を支へてゐる一つの大いなる存在に由るのである。その支柱の崩れ行くさまを杉村は今眼のあたりに見たのである。彼はその原因について考へ、その一半が自分たちの側にあることを見た。だがそれはいかにしてもある程度までは避け難いことにも考へられた。――いつか彼は昔よんだある小説を思ひ出してゐた。ロシアの作家のもので、彼らのなかで彼らのために働いてゐた農村オルグを縛つてつき出した農民を描いたものであつた。なほ多く經なければならないであらうあたらしい試煉の數々について、杉村は思はないわけにはいかなかつたのである。
一月が經つた。向ひの房の四五人はその間にも二度ほど調べられた模樣だつた。杉村は歸つて來る彼らの顏から何ものかを讀みとらうとしたが不可能だつた。やがて彼らはある日姿を消し(釋放されたのであらう)、その翌日杉村は呼び出されたのである。
導かれて部屋にはいり、机をへだててそこに坐つた眼の鋭い洋服男の顏を、やや棄鉢な氣持で下から見上げた。たつた一つ、そのことのためにまんじりともしなかつた夜も多かつたその事實が、いや應なしに今はわかるのである……。
「暫くだつたな。」と彼はいつた。杉村はだまつてうなづいて見せた。しかし髯の濃いその圓顏はどこで見た顏かにはかに思ひ出せなかつた。
「元氣か?」
「ええ、元氣です。」
髯の男は内田
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