かつた。何ヶ月前かにもこゝへ來て、見覺えのある壁の落書を見てゐると、過去と現在と將來の見透しが走馬燈のやうに腦裡をかけ巡つた。何度來てもそれはその度毎のことで、慣れ切るといふことは出來ないものとおもはれる。しかし時が經ち、夕飯を終へて灯りが淡く房内を照す頃になると氣持はぢんとおちついて來た。とんでもないところで大西のいつた休養ができると杉村はわらつた。とらへられたことによつて當面の困難な任務から一時でも解放されることの氣易さを、ちよつとでもそんな氣の起ることを恥ぢながらも感じた。
 うつらうつらしてゐるうちに十日ばかりが經つてしまつた。――が、すぐに杉村は思ひがけない衝撃にぶちのめされなければならなかつた。
 ある日杉村は町の本署へまはされた。留置場のある建物へ導かれ、廊下の隅に立つて待つてゐると、一人の男が房から出され、持ちものの調べがはじまつた。俺の代りによそへやられるんだな、と思つてひよいと見ると、和服姿で顏ぢゆう髯だらけになつてはゐるが、まぎれもなく小泉だつた。向うはとうに氣がついて、ちらりとこつちを見ては眼にものをいはせてゐる。
「ちよつと便所へ。」とそのとき小泉はいひ、いふかと思ふともう場馴れたふうでずんずんと便所の方へ――杉村のゐる方へあるいて來た。彈力のある精悍な身のこなしに何かあるなととつさに心に身がまへると、すれちがひさまに、
「共産黨狩りだ。」
 と低く一言だけいつた。低くしかし鋭い聲だつた。
 はつと思ふともうはげしく動悸が來た。それは部屋へはいつたのちまでも容易にはとどまらなかつた。度を失つた狼狽にしばらくぼんやりしてゐたが、急に聲をあげてはつはつと嗤つてやりたかつた。自分をあざける笑ひをである。知らぬが佛とはいへなんと心のどかにこの十日間を暮して來たものであらう。おそろしい陷穽がその間にも着々と準備されつゝあつたのを知らずに。杉村はとらへられた當初から今が今まで事柄の性質をきはめて簡單に考へてゐた。選擧後の大衆運動をふせぐための豫備檢束にすぎないとしてゐたのである。それは餘りにも自明であり、思ひなほして見ることすらもなかつた。だが今の小泉の一言は? ほかの誰がそれを聞いても平氣でゐることができたであらう。だが小泉と杉村の二人だけは平氣では居れぬわけがあつた。事柄は重大なものを含んでゐるのである。
 ふとあることに思ひ當つて杉村は青くなつた。單純な恐怖ではなく複雜なものを孕んだ感情だつた。そしてたとへそれについて訴へる自由が今あたへられたとしても、何人にたいしても話し得ないその事の性質を考へると杉村はたまらなかつた。彼は齒の根も合はぬほどにふるへ、ゐたたまれなくなつて起上り、戸口のところへ立つて行つた。むしやうに人の顏が見たく、さうしたならば氣も樂になるであらうと考へた。
 鐵格子から向うの房内をすかして見て、彼はふたたびあらたなおどろきに打たれた。戸口にちかい壁によりかかつて、これもやはりなにかものほしさうに外を見てゐるのは組合員の一人ではないか。幹部でもなんでもなかつた、しかし日頃から見知り越しの一人だつた。彼はなんのために引かれて來たものであらう。それはいふまでもないことで、もうそんなところまで手をのばしてゐるのかと、馬鹿らしさといきどほりとが一緒になつて胸をつきあげて來るのだつた。しかし思ひがけない顏を見出したよろこびは大きく、かつは知りたいと願つてゐることが聞けるとおもふ豫想にはずむ心はおさへがたく、とんとんと合圖の扉をたたいたのである。
 向うはまつすぐ扉のところまで寄つて來、杉村を認めたやうである。緊張した顏つきになり、房内をふりかへつて何かいふと、人のけはひがしてすぐに二三人立つて來た。一人ではなかつた! みんな見知つた顏である。
 咽喉元まで何か出かかる言葉を、さすがに外をはばかつておさへ、その代りあらゆる親愛の情をそれ一つにこめた微笑を杉村は投げあたへた。
 何がそれに向つて答へられたか。
 ぢつとまたたきもせず杉村を凝視してゐるいくつかの眼は、眼尻に皺一つ寄せなかつた。それは險しくきついものになるばかりであつた。口元はいつまで經つても綻びず、固く結ばれたままにゆがむのであつた。野良からそのまま連れて來られたらしい仕事着のままのもゐる、髯も髮ものび放題の憔悴し切つたその顏にいつかはつきり浮びあがつてゐるものは、人をつきさす非難の色以外の何ものでもなかつた。杉村はいきなりひつぱたかれたやうな氣持だつた。
 突然なかの一人が黄いろい並びのわるい齒を齒ぐきもろともむき出した。
「ちえつ!」
 はげしく舌打ちをし、手をあげ、拳を作つて宙にうちふるやうにすると、ふたたび鐵格子をしつかと掴んで、喰ひ入るやうにこつちを見るのである。――
 事實憎惡と怨恨と憤怒とがこれらの人々をとらへてゐたのであ
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