することも出來なかつた。

 大西が歸つてからも杉村はしばらく起きてゐた。ぼんやり坐つて、いろいろな想念が秩序なく頭のなかに犇めきあふに任せておいた。大西は樂觀していつたが、彼がその責任者である組織の運命、それの當面してゐる諸問題、組織者としての自分の能力についての反省などが彼のなかでからみ合つた。農民が所屬してゐるそれぞれの層の組織内での重さ輕さが問題であると思つた。組織運動の一つの段階のちやうど終りに來てゐるといふ氣がした。つまり富農的小作人とでも名づけていい要素が、ある時期、特に初期の時期に組織内に壓倒的な力を持つのは必然なのだが、その時期が今終らうとしてゐる。彼らは彼らの持つ限界に到達したわけである。もし貧農的要素と彼らとの間に對立が起れば、その對立は避けるべきではなくその結果組合の數的勢力が微弱になつても仕方がないと杉村は考へた。そして現在貧農的要素が組合内に力弱いことは事實である。數の上での大小はともかく、組織内での實權を彼らは持たなかつた。村における彼らの社會的地位の輕重が、無産者的な組織のなかにまでそのまゝ持ち込まれてゐる奇妙さについて杉村は考へた。――そこで彼の考へは組織外のおおびただしい數の貧農の上にまでのびて行つた。直接小作料の問題で立ち上る氣力のない貧農、又は立ち上つても會費を納入し、恒久的な組織に保持しえない貧農についてである。廣汎なその層を問題にして來ると今のやうな組織と要求の取上げ方だけでは無力だつた。どうしても別個の新しいたたかひの形態が必要であり、今まで輕視されてゐた小作料以外の要求が重要視されねばならぬ時である。杉村は最近讀んだ支那の農民運動について考へあのなかにこそ多くの示唆があるのにちがひないと思ふのだつた。――しかし問題がそこまで進んで來ると、それの重大さ困難さの前に、組織者としての自分の能力について反省せずにはゐられなかつた。この仕事にこそ命を賭して悔いぬと全身で思ひこんだ。だがその三年間に實際にしとげた仕事の貧しさといふものはどうであらう。大西その他二三の青年を見出したことが結局最大の成果であるやも知れぬ。杉村が仲間たちの間で多少重んぜられてゐたのは、組織者としての能力の優越のためではなく、仕事の前に私の生活を無視し抹殺する彼の態度に一應の敬意が拂はれてゐたにすぎない。すべて和やかなもの、浮々するもの、駘蕩たるものは彼にあつては退けられ、きびしくはげしいものだけが迎へられた。酒や煙草や、豐かな食物などが退けられてゐたのも、あながち健康や、經濟のためばかりではなかつた。書記たちの會議があり、その夜町の事務所に泊るとき、杉村は自分の隣に寢た筈の仲間たちの姿が、いつか消えてゐるのをいくどか見た。彼らがどこへ行くかを杉村は知つてゐた。そして杉村はかつてさういふ仲間たちの後を追つたことはなかつた。一度だけ、ある夜その明るい街の方へ足を向けたことがあつた。だが、彼のふところのなかの、そしてそこで使はるべき金が、百姓の米を賣つた金から出てゐることに思ひあたつたとき、杉村は逃げるやうにして事務所へ歸つて來た。「血の一滴、精力の一とカケラといへど仕事のために。」彼はそれを聲に出していつてみた。しかしさういふ杉村の態度には、さういふものを追求してゐるのと同樣な、拘泥し囚はれたものが感じられ、萬事に圖太くなり切れぬ小心な潔癖が結局組織者としても小さな器《うつは》に過ぎぬことの證《あか》しであるかも知れなかつた。――
 頭のなかは熱し切つてゐるくせに、どこかうつろな片隅がぼそんと口をあけてゐるやうな氣持だつた。親しみ深く見慣れた机や書棚や、雜然と積みあげられた書類の山や、何から何までが妙にカサカサとして味氣なかつた。やはり身體が少し弱つてゐるのであらう。急に氣がゆるみ、何度目かの疲れが襲つて來、上衣を脱いだそのまゝの姿で、杉村は部屋の隅の寢床に横になつて眠りこんだ。

 敗戰後に當然來るべきものがしかし案外に早く來た。――それから三日目の午後、杉村はある村の選擧報告の演説會に出かけて行つた。そこでの演説を終へ、他の村へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]らうと道へ出かゝると、五人の紳士がそこに待ち伏せてゐて杉村を何處かへ連れ去つて了つたのである。その場では杉村一人であつたが、その後二三日のうちに書記たちは半分に減り縣本部や各地區の事務所はガラ空きになつた。
 ――がたんと厚い扉のしまる音がし、ついで鐵と鐵のすれ合ふ音がし、消えて行く靴音を耳で追ひながら、その部屋のまん中に崩れるやうに横になつて、杉村はとろとろと何時間か眠つた。――田舍の留置場は人數も少く規則もルーズだつた。一眠りして起きると、ああ、こゝへ來たんだつけ、とあらためて氣づき、小さな窓から日の傾きかげんを測るともう日暮れにほど近い時刻らし
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