然と人間とを対立させまして、かつては私ども人類の驚異の対象であり、いや畏敬のシンボルとさえ考えられておりましたその自然に対しまして、「自然征服」というような言葉を、いや言葉だけならまだしも、そういった思想までも持たれるようになって来ておりますことは、否定できない事実でございます。昨今、かの新聞に、雑誌に、あるいは大衆向きのよく用いられております「征服」という言葉の乱用(?)は、まことにそれを実証いたしているかのように思われます。飛行機が空を飛んだというので「空中征服」、汽船が海を渡ったというので「海洋征服」、夏の休暇にちょっとそこいらの高い山へ登って来たからといって「山岳征服」、それも命からがら登ったり飛んだりしておりながら、そういった言葉が、しかもきわめて無造作に用いられるのが昨今の世相の特徴とさえ申したいほどであります。幸い、御当地の御岳さんは、今も昔もその霊山であることには変りはございませんが、御岳さんだけではなく、あらゆるもろもろの山岳は皆霊山である筈であります。それへ登って来たからといって、「征服」して来たというような考え方は、どう考えて見ても浅ましい考え方としか受取られないのであります。何という敬虔の念の乏しい考え方ではないかと痛感されてならないのであります。
昨今、登山者の増加ということももちろんございましょうが、その敬虔の念の薄らいだということも、かの遭難者を頻発させる、その大きな原因とさえ私は考えているのであります。
どなたでも首肯されることと思いますが、事実、飛行機はかの鳥や蜻蛉の格好に、汽船は魚の、汽車は蛇のそれぞれその格好に似せて造ってあるではございませんか。幸か不幸か、鳥や魚が、ちょっと、われわれに判るような言葉で喋っておらないから、私どもはうっかりしており、いや、自惚れているのではございますが、いったい彼ら鳥や獣は、われわれの行動をどう見ていることでありましょうか。「人間というものは、よくもこうわれわれの真似をしたものだ」と半ば感心し、半ば不思議がっているに違いないと思うほどであります。
世間で「自然を征服した」といっているその事実をよくよく吟味して見ますなら、いずれも実はその自然の持っている「大法則にしたがっている」のであります。すなわちその自然の持っている法則を発見し、その法則に完全に従えばこそ、外面的には征服したかのようにも見
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