た。
「万歳万歳」の声は四方に起り、一同は蟻《あり》の甘味《あまき》に付くように水汲み隊の周囲《まわり》に集り、咽《のど》を鳴らして水筒の口から水を呷《あお》る。その旨《うま》い事! 甘露ともなんとも譬《たと》えようがない。
 スルト今まで居眠りをしていた剛力先生、二人共ノソノソやって来て、吾輩等の背後《うしろ》から猿臂《えんび》を伸ばして水筒を掴《つか》もうとする。
「コラッ、貴様ッ、ろくろく働きもせぬくせに、生血《いきち》のような水を唯《ただ》飲みしようとは、怪《け》しからん奴だ」と呶鳴《どな》り付けたが、考えてみればあれも人の子、咽の渇くのは同じだろうと惻隠《そくいん》の心も起り、
「皆飲むなよ」と、長い竹筒の水を渡してやれば、先生竹筒に口を当てるが早いか、逆様《さかさま》にして皆ゴボゴボと飲んでしまった。イヤ腹の中へ飲んだのならまだいいが、奴《やっこ》さん一口でも多く飲んでやろうと周章《あわ》てたため、水汲み隊が汗水流して汲んで来た大事な水をば、大半ゴボゴボと溢《こぼ》して地面に飲ませてしまったのだ。よくよく癪《しゃく》に触る奴等であるわい。

    (一五)巨大な天狗面

 しかし小言《こごと》をいったとて帰らぬ事、一同は些《いささ》か咽《のど》の渇きも止《とま》ったので、
「サァ明朝《あす》は早いぞ、もう寝ようか」と、狭い天幕《てんと》内へゾロゾロと入り込んだが、下は薄い筵《むしろ》一枚で水がジメジメ透《とう》して来る。雨はますます激しく、開放《あけはな》しの入口は風と共に霧さえ吹込んで来るので、なかなか以て横になる事も出来ない。その内に焚火は天幕の一隅に燃え付いて、天幕は鬼火のように燃え上がる。
「ヤア、火事だ火事だ」と、周章《あわ》てて揉み消す。火の粉は八方に散る。
「これは迚《とて》もいかん。寧《むし》ろ廃殿の中で眠った方が得策だ」と早速天幕を疊み、一同はまたもやゾロゾロと、簷《のき》は傾き、壁板は倒れ、床は朽ちて陥込《おちこ》んでいる廃殿に上《のぼ》り、化物の出そうな変な廊下を伝《つたわ》って奥殿へと進み、試みに重い扉を力任せに押してみると、鍵は掛《かか》っておらず、扉はギーと開《あ》いたので、これは有難いと、懐中電灯の光に中を照《てら》してみると、奥殿の床板は塵埃《ちりほこり》の山を為《な》し、一方には古びた巨《おお》太鼓が横《よこた》わり、正面には三尺四方程の真赤《まっか》な恐ろしい天狗の面がハッタとこちらを睨んでござる。一人でこんな場所へ来てこんな恐ろしい面を見たら、キャッと叫んで逃げ出すかも知れぬが、一行は大勢なのでチットも驚かない。
「ハハァ天狗様が祀《まつ》ってあるのだな、これは御挨拶を申さずばなるまい」と、そこで髯将軍は恭《うやうや》しく脱帽三拝し、出鱈目《でたらめ》の祭文《さいもん》を真面目|臭《くさ》って読み上げる。その文言《もんく》に曰《いわ》く、
「コレ、天狗殿、吾輩は東京天狗倶楽部の一|人《にん》、吉岡信敬なり。敢《あえ》て閣下の子分に非《あら》ずと雖《いえど》も、また多少の因縁なきにしもあらず。今夜ここに泊る。もし猛獣毒蛇|来《きた》らば、その眼玉で睨み殺して賜われ。猛獣ならばその皮は吾輩有難く頂戴《ちょうだい》する。終りッ!」
スルト側《そば》から水戸の川又子、俳号を五|茶《さ》と申す、宗匠気取りで、
 ああら天狗一夜の宿を貸し給え
と駄句《だく》れば、
「アーメン」と誰か混ぜ返した者がある。
「コラ、そんな事をいうと、天狗様の罰が当るぞ」と、未醒《みせい》子は眼を剥く。先生の相貌、羅漢に似たる為か、アーメンはよくよく嫌いと見えたり。

    (一六)拝殿の[#「拝殿の」はママ]一夜

 サア天狗様へ御|挨拶《あいさつ》も済んだというので、一同は奥殿の片隅を拝借し、多くはビショビショに濡れたまま、雑嚢《ざつのう》や新しい草鞋《わらじ》を枕に横《よこた》わったが、なかなか以て眠られる次第ではない。下は毛布《けっと》一枚敷かぬ堅い床板なので、腰骨や肩先が痛くなる。深夜の寒気《さむけ》にブルブル震えて来る。その上得体も知れぬ虫がウジウジ出て来て、誰かの顔へは四寸程の蚰蜒《げじげじ》が這《は》い上《あが》ったというので大騒ぎ。あっちでもブウブウ、こっちでもブウブウ、その内にゴーゴーと遠雷のような音響《ひびき》、山岳鳴動してかなり大きな地震があった。
「ソラ、天狗様の御立腹だ」と、一同は眼玉を円《まる》くする。ヌット雲表《うんぴょう》に突立《つった》つ高山の頂辺《てっぺん》の地震、左程の振動でもないが、余り好《い》い気持のものでもない。しかしこんな高山絶頂の野営中に地震に出逢うとは、一生に再び有る事やら無い事やら、これも後日一つ話《ばなし》の記念となるであろう。
 とにかく寒気《さむさ
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