》と虫類のウジウジ押し寄せるので、吾輩はいかに日中の疲労《つかれ》があっても容易に眠る事は出来ず、早く夜が明けてくれればいいがと待つばかり。その内に一時間位はウットリしたのであろう。なんだか悪魔に腰骨でも蹴られたような夢を見てハット驚き目を開《あ》くと、眼前には真赤《まっか》な恐ろしい天狗の面。将《まさ》に消えなんとする蝋燭《ろうそく》の光は朦朧《もうろう》とそれを照《てら》している。時計を出して見ると午前三時。まだ夜の明けるには間《ま》があるが、いつまでもこんな所に寝ていられるものかと、吾輩は突如《いきなり》跳ね起き、拳《こぶし》を固めて傍《そば》の巨《おお》太鼓を、ドドンコ、ドンドン、ドドンコ、ドンドンと無暗《むやみ》に打叩けば、何人《なんびと》も満足に睡《ねむ》っていた者はなかったものと見え、孰《いずれ》もムクムクと頭を擡《もた》げて、
「何時だ何時だ」
「まだ三時だが、もうそろそろ出立と致そう」
「よかろうよかろう」と、一同も起上《おきあが》り、着のみ着のままで寝たので身仕度の手間は入らず、顔を洗おうにも水はない。また握飯《にぎりめし》はオジャンとなったので朝食《あさめし》の世話もないが、今日の行程は七里以上、なにも食わずでは堪らぬと、昨夜《ゆうべ》咽《のど》を渇かしたにも懲りず、またしても塩からいコーンビーフに些《いささ》か腹を作り、氷砂糖などをしゃぶりつつ、出発の用意全く出来上ったが、ここに困った事には、例の剛力先生、今日のお伴は真平《まっぴら》だといい出した一件で、
「こんな苦しいお伴をした事は生れて初めてだ。荷物の重いばかりでなく、箆棒《べらぼう》に前途《さき》ばかり急いで、途中ろくろく休む事も出来ねえ。どこまでも付従《くっつ》いて行ったら生命《いのち》を取られるかも知れねえだ。俺達はここから帰る帰る」
とダダを捏《こ》ねている。
「そんな事をいっては困る。この深山で置いてきぼりを食っては、麓へ降りる道も分からぬではないか。今日は荷物もウント軽くしてやる。ゆっくり休ませてもやるから、ぜひ行ってくれ」と頼んでも、
「厭《いや》だ厭《いや》だ、ここで御免|蒙《こうむ》るだ」と、いつまでもグズグズいっているので、吾輩大いに腹を立て、
「勝手にしろ。山を降りれば何かあるに相違ない。何かに付いて降《おり》れば、どこかの村に着《つく》に極《きま》っている。汝等《なんじら》ごとき懦弱漢はかえって手足《てあし》纏《まと》いだ。帰れ帰れ」と追い帰し、重い荷物は各自分担して、駄馬のごとく、背に負い、八溝山万歳を三呼して廃殿を立ち出《い》でた。

    (一七)山中マゴツキ

 この時は午前の四時少し過ぎ、東の空は漸《ようや》く白んで来たようだが、濃霧は四方を立て罩《こ》めて、どこの山の姿も分らない。もし濃霧|霽《は》れて、東天に太陽の昇るのを見たならば、その絶景はいかばかりだろうと思うが、今日到底その望みはないので、一行は濃霧中に道を捜しつつ山を降《くだ》って行く。
 登る時には長い時間と多くの汗水とを費《ついや》させた八溝山も、その降《おり》る時は頗《すこぶ》る早い。しかし降《お》り道も決して楽ではなかった。濃霧は山を降《おり》るに随《したが》い次第次第に薄くなって、緑の山々も四方に見えるようになったが、道はしばしば草に埋没して見えなくなる。崖の崩れて進むに難《かた》い処《ところ》もある。赤土の道では油断をすると足を掬《すく》われて一、二回滑り落《おち》、巌石《がんせき》の道では躓《つまづ》いて生爪を剥がす者などもある。その上、虻《あぶ》の押寄せる事|甚《はなはだ》しく、手や首筋を刺されて閉口閉口。
 絶頂から一里ほど降《おり》ると、果《はた》して急流矢のごとくに走っている。急流の岸には一軒の水車小屋も淋《さび》し気に立っている。一行は今夜、那須野《なすの》ヶ|原《はら》の黒羽《くろばね》町に一泊の予定で、その途中、有名な雲巌寺《うんがんじ》へ回ってみる積りなので、急流の岸の水車小屋に足を運び、
「ここから雲巌寺まで何里ある」と訊《き》けば、
「二里位だ」と答える。有難《ありがた》し有難し、二里位なら一足飛びだと、くわしく道を聴き、急流に沿うて、或《あるい》は水を渉《わた》り、或《あるい》は岩角を踰《こ》え、漸《ようや》く道らしい道に出たので、一行は勇気数倍し、髯将軍|真先《まっさき》に軍歌などを唱《うた》い出し、得意になってだんだん山を降《くだ》ること一里半ばかり、むこうから樵夫《きこり》らしき男が来たので、
「雲巌寺へはこの道を行けばいいのか」と訊《き》けば、
「滅相もない。この道を行けば棚倉《たなぐら》へ出てしまう。雲巌寺へはズット後戻りして、細い道を右へ曲がって行かねば駄目だ」と、悉《くわ》しく道を教えられて有難いやら
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