本州横断 癇癪徒歩旅行
押川春浪
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)懦弱《だじゃく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)昼寝|罵倒《ばとう》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+它」、第3水準1−14−88]
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不思議の血=懦弱《だじゃく》と欲張=髯将軍の一喝=技手の惨死=狡猾船頭=盆踊り見物=弱い剛力=登山競走=天狗の面=天幕《てんと》の火事=廃殿の一夜=山頂の地震=剛力の逃亡=焼酎の祟=一里の徒競走=とんだ宿屋
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(一)昼寝|罵倒《ばとう》
この奮励努力すべき世の中で、ゴロゴロ昼寝などする馬鹿があるかッ! 暑い暑いと凹垂《へこた》れるごときは意気地無しの骨頂じゃ。夏が暑くなければそれこそ大変! 米も出来ず、果実も実らず、万事|尽《ことごと》く生色《せいしょく》を失う事となる。夏の暑いのがそれほど嫌な奴は、勝手に海中へでも飛込んで死ぬがよい。今や狭い地球上――ことにこの狭い日本では、碌《ろく》でもない人間が殖《ふ》え過ぎて甚《はなは》だ困っている。怠惰者《なまけもの》や意気地無しがドシドシ死んでしまえば、穀潰《ごくつぶ》しの減るだけでも国家の為に幸福かも知れぬ。
吾党《わがとう》は大いに夏を愛する。暑ければ暑い程鋭気に満ちて来る。やれやれ、何か面白い事をやってくれようと、そこで企てたのが本州横断徒歩旅行! もちろん亜弗利加《アフリカ》内地旅行だの、両極探検だのに比すれば、まるで猫の額を蚤《のみ》がマゴついているようなものであるが、それでも、口をアングリ開けて昼寝をしているよりは、千倍も万倍も愉快に相違ない。
出発は八月十日、同行は差当り五人、蛮カラ画伯|小杉未醒《こすぎみせい》子、髯《ひげ》の早大応援将軍|吉岡信敬《よしおかしんけい》子、日曜画報写真技師|木川専介《きがわせんすけ》子、本紙記者|井沢衣水《いさわいすい》子、それに病気揚句の吾輩《わがはい》である。吾輩は腹式呼吸と実験から得た心身強健法とで、漸《ようや》く病気の全快したばかりのところへ、要務が山積しているので、実は徒歩発足地の水戸まで一行を見送り、そこで御免を蒙《こうむ》る積《つも》りであったが、さて水戸まで行ってみると、オイソレと逃げる訳にも参らず、とうとう牛に曳かれて八溝山《やみぞやま》の天険を踰《こ》え、九尾の狐の化けた那須野《なすの》ヶ|原《はら》まで、テクテクお伴をする事に相成った。
(二)奇異の血汐《ちしお》
徒歩出発地は前にいう太平洋沿岸方面の常州《じょうしゅう》水戸で、到着地は日本海沿岸の越後国《えちごのくに》直江津《なおえつ》の予定。足跡《そくせき》は常陸《ひたち》、磐城《いわき》、上野《こうずけ》、下野《しもつけ》、信濃《しなの》、越後の六ヶ国に亘《わた》り、行程約百五十里、旅行日数二週間内外、なるべく人跡絶えたる深山を踏破して、地理歴史以外に、変った事を見聞《けんもん》し、変った旅行をしてみようというのである。
ところが東都出発の数日以前から、殆《ほと》んど毎日のように暴風|大雨《たいう》で、各地水害の飛報は頻々《ひんぴん》として来《きた》る。ことに出発の前夜は、烈風|甍《いらか》を飛ばし、豪雨石を転《まろ》ばし、勢《いきおい》で、東都下町方面も多く水に浸され、この模様では今回の旅行も至極《しごく》困難であろうと想像しているところへ、ここに今考えても理由《わけ》の分からぬ事があった。というのは他《ほか》でもない、その夜の事である。本誌お馴染《なじみ》の断水坊、暴風雨を冒して遊びに来り、夜遅くまで、二人で将棋をパチクリパチクリやっておったが、時刻は夜半の零時か零時半頃であったろう、吾輩はなんでも香車か桂馬をばパチリッと盤面に打下《うちおろ》そうと手を伸ばした途端である。不意に何か吾輩の食指《ひとさしゆび》の中央《まんなか》にポタリと落ちた冷たいものがある。
「オヤ、雨が漏ったのか」と、熟視すると、雨ではない。豆粒程の大《おおき》さの生々しい血汐《ちしお》である。
「ヤッ、変だぞ、変だぞ」と、断水坊も将棋指す手を止め、この血は鼻から出たものであろうと、二人は顔面《かお》はいうに及ばず、全身残りなく検《しら》べてみたが、どこからも血の出た気勢《けはい》が微塵《みじん》程もない。また鼻から出たにしたところで、鼻先から一尺四、五寸も前へ突出《つきだ》した食指《ひとさしゆび》の上へ、豆粒程の大《おおき》さだけポタリと落ちる道理はないのだ。
「それでは天井から落ちたに相違ない」
「そうだそうだ、天井で鼠が喧
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