嘩して、その負傷した血汐の滴り落ちたのだろう」と、断水坊は御苦労にも卓子《テーブル》を担ぎ出してその上へ登り、吾輩は、懐中電灯を輝かして、蚤取眼《のみとりまなこ》で天井を隈《くま》なく詮索したが、血汐は愚か、水の滴り落ちた形跡すらどこにもない。どうも分からん分からん、不思議な事もあれば有るものだと、二人は暫時《しばし》顔を見合《みあわ》すばかり。鮮血は二人の身体《からだ》から出たものでなく、また天井から落ちたものでないとすれば、空中から飛んで来たものとほか思う事は出来ない。誰か友人中に死んだ者でもあって、その暗示《しらせ》が来たのではあるまいか。イヤそんな事もあるまいが、横断旅行の首途《かどで》にこの理由《わけ》の分らぬ血汐は不吉千万、軍陣の血祭という事はあるが、これは余り有難くない、それにこの大風《たいふう》! この大雨《たいう》! 万一の事があってはならぬから、明日の出発は四、五日延期してはどうかと、断水坊平生の洒《しゃあ》ツクにも似ず真面目|臭《くさ》って忠告を始めたが、吾輩はナアニというので、その夜はグッスリと寝込み、翌朝|目醒《めざ》めたのは七時前後、風は止んだが、雨は相変わらずジャアジャア降っている。
(三)洪水の悲惨
上野発水戸行の汽車は午前十時と聴いたので、さっそく朝飯を掻込《かっこ》み、雨を冒して停車場《ステーション》へ駆け着けてみると、一行《いっこう》連中まだ誰も見えず、読売新聞の小泉君、雄弁会の大沢君など、肝腎の出発隊より先に見送りに来ている。その内に未醒《みせい》画伯の巨大なる躯幹《くかん》がノッソリ現われると、間もなく吉岡将軍の髯面《ひげづら》がヌッと出て来る。衣水子、木川子など、いずれも勇気|勃々《ぼつぼつ》、雨が降ろうが火が降ろうが、そんな事には委細|頓着《とんちゃく》ない。
やがて午前十時になったので、切符を購《もと》めて出札口に差し掛かると、
「ドッコイ、お待ちなさい。これは水戸行の汽車ではありません。水戸行は午前十一時五十五分です」と来た。
「オヤオヤ、オヤオヤ。誰だ誰だ、水戸行を、午前十時だと言ったのは――」と、一同|開《あ》いた口をヒン曲げて詮議に及んだが、誰も責任者は出て来ない。元来|呑気《のんき》な連中の事とて、発車時間表もよくは調べず、誰言うとなく十時に極《き》めておったのだ、とにかく約二時間待たねばならぬ。ボンヤリしているのも智恵がないから、不忍《しのばず》の池の溢れた水中をジャブジャブ漕いで、納涼博覧会などを見物し、折から号外号外の声|消魂《けたたま》しく、今にも東都全市街水中に葬られるかのように人を嚇《おどか》す号外を見ながら、午前十一時五十五分、今度は首尾よく上野出発。この時から常陸《ひたち》山中の大子《だいご》駅に至るまでの間の事は、既に日曜画報にも簡単に書いたので、日曜画報を見た諸君には、多少重複する点のある事は、御勘弁を願いたい。
汽車の旅行は平々凡々、未醒子ははや居眠りを始める。
「コラコラ、今から居眠りをするようでは駄目じゃッ」と、髯将軍の銅鑼《どら》声はまず車中の荒肝《あらぎも》を拉《ひし》ぐ。
汽車、利根川の鉄橋に差し掛かれば、雨はますます激しく、ただ見る、河水は氾濫《はんらん》して両岸湖水のごとく、濁流|滔々《とうとう》田畑《でんばた》を荒し回り、今にも押流されそうな人家も数軒見える。遭難者の身にとっては堪《たま》ったものではない。禿《はげ》頭に捩《ね》じ鉢巻で、血眼になって家財道具を運ぶ老爺《おやじ》もあれば、尻も臍《へそ》もあらわに着物を掀《まく》り上げ、濁流中で狂気《きちがい》のように立騒いでいる女も見える。融通の利かぬ巡査でも見付けたら、こんな場合でも用捨《ようしゃ》なく風俗壊乱の罪に問うかも知れぬが、今は尻や臍の問題ではない、生命《いのち》の問題である。近来、殆んど連年かかる悲惨なる目に遭い、その上|苛税《かぜい》の誅求《ちゅうきゅう》を受けるこの辺《へん》の住民は禍《わざわ》いなるかな。天公|桂《かつら》内閣の暴政を怒《いか》るか、天災地変は年一年|甚《はなはだ》しくなる。国家のため実に寒心に堪えぬ次第ではないか。
しかるに、走り行く此方《こなた》の車内では、税務署か小林区《しょうりんく》署の小役人らしき気障《きざ》男、洪水に悩める女の有様などを面白そうに打《うち》眺めつつ、隣席の連れと覚《お》ぼしき薄髭の痩男に向い、
「どうです、一句出ましたぜ、洪水に女の股《もも》の白きかな――ハッ、ハッ、いかがでげす」などと、嘔吐《へど》のごとき醜句《しゅうく》を吐き出せば、側《かたわら》の痩男は小首を捻《ひね》って、
「なるほどな、秀逸でげす」などと相槌《あいづち》を打つ。同胞の難儀を難儀とも思わぬ困った奴らである。こんな冷酷な役人根
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