の空を焦がすのみ。雨は相変らずショボショボと降り、風は雑草を揺がして泣くように吹く、人里離れし山巓《さんてん》の寂莫《せきばく》はまた格別である。
 廃殿の柱や扉には、曾《かつ》てここを過ぎた者の記念と見え、色々様々の文字が記してあるが、中にこんな事も書いてあった。
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「明治四十三年十月二十日、黒羽《くろばね》町|万盛楼《まんせいろう》の娼妓《しょうぎ》小万《こまん》、男と共に逃亡、この山奥に逃込みし筈《はず》、捜索のため云々《うんぬん》――」
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と、捜索に来た人間の名も麗々と記してある。こんな山奥に逃込むとは驚いた女もあるものかな、もしや男と共に谷間へ投身《みなげ》でもしたのではあるまいか、どこかそこらの森林で首でも縊《くく》って死んだのではあるまいかと思うと、余り好《い》い気持はせぬ。
 その内に夜はシンシンと更けてくる。しかしまだ寝るには早い。イヤ寝るにも毛布《けっと》も蒲団も無いので、一同は焚火を取囲み、付元気《つけげんき》に詩吟するもあり、ズボンボ歌《うた》を唄《うた》うもあり。風上にいる者は雨の飛沫《しぶき》を受けるだけで我慢もなるが、風下にいる連中は渦巻く煙に咽《むせ》び返って眼玉を真赤《まっか》にし、クンクン狸のように鼻ばかり鳴らしている。
 とかくする内に、一同は咽《のど》が乾いて堪らなくなって来た。それもその筈だ。汗水たらして激しく山登りをして来た上に、握飯には有付けず、塩からい冷肉を無闇《むやみ》にパク付いたので、迚《とて》も堪《たま》ったものではない。
「ああ咽が渇く、咽が渇く」との嘆声八方より起る。なるほど八人口々に唸るのだから、これこそ本当の八方じゃ。
 なんでもこの山巓《さんてん》を少し降《くだ》った叢《くさむら》の中には、どこかに岩間から湧き出《いづ》る清泉《せいせん》があるとは、日中|麓《ふもと》の村で耳にしたので、
「オイ、その清泉《いずみ》の所在《ありか》を知らぬか」と剛力に聴いてみたが、
「一向知らねえだ」と澄ました顔をしている。後《あと》から考えてみると、数回この山に登った奴が全然知らぬ道理はない、きっとこの雨の中を汲みに遣られては堪らぬと、自分等も咽の渇くのを我慢して、焚火に噛《かじ》り着いていたいため、知らぬ顔の半兵衛を極《き》め込んでいたものと見える。
 一行は手分けをして、雨に濡《うるお》う身長《みのたけ》より高い草を押分け押分け、蚤取眼《のみとりまなこ》で四方八方捜索したが、いかにしても見出す事が出来ない。咽はいよいよ渇いて来る。ある先生はショボショボ降る雨でも飲んでくれようと考えたものか、空を仰いで大口開けて突立っているが、雨はなかなか旨《うま》く口中へ降り込んではくれぬ。その馬鹿気た風体は見られたものではなかった。

    (一四)暗中|水汲《みずくみ》隊

 いよいよ山巓《さんてん》に近く水が無いものとすれば、胸突《むねつ》き八丁を降《くだ》って金性水《きんせいすい》まで汲みに行かねばならぬ。オオ金性水よ! 金性水よ! そこには氷のごとき清水が瀑布《たき》のように落ちているのだ。それを考えただけでも咽《のど》がグウグウ鳴る。しかしこの疲れた足で金性水を汲みに行くのは容易な事ではない。この暗い夜! 胸突き八丁の険阻。ことにこんなジメジメした夜中《やちゅう》には、蝮《まむし》が多く叢《くさむら》から途中に出ているので、それを踏み付けようものなら、生命《いのち》にも係わる危険であるが、咽の渇きも迚《とて》も怺《こら》える事が出来ぬので、一同は評議の上、留守師団は水汲み隊の帰ってくるまでの間に、天幕《てんと》を張り、寝る用意を総《すべ》て整えておく事とし、未醒《みせい》子、杉田子、髯将軍の三人は、身を殺して仁を為すといわぬばかりに、甲斐甲斐《かいがい》しく身支度を整え、水筒はただの三個の他《ほか》はないので、こればかりの水では足らぬと、廃殿の中を捜し回り、古びた花立のような長い竹筒を見付け出したので、それ等をぶら下げ、懐中電灯に暗い険しい胸突き八丁の道を照らしつつ、雨を冒して金性水の方《かた》へと降りていった。
 跡に残った吾輩等は、焚火に燃ゆる枯枝を松明《たいまつ》と振り照らし、とある大木の下の草の上に天幕《てんと》を張り出したが、松明は雨で消える、鉄釘は草の中へ落ちて見えなくなる、その困却は一通りでなかったが、彼《か》の殿様然たる剛力どのには、水を汲みに行こうとはいわねば、天幕を張る手伝いをするでもなく、ただ焚火に噛《かじ》り着いてはや居眠りを始めてござる。
 三、四十分も掛かって漸《ようや》く天幕《てんと》を張り終り、筵《むしろ》を敷いてそこへ覚束《おぼつか》なくも焚火を始めた頃、水汲み隊は息を切らしヘトヘトになって帰ってき
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