子には重い荷物のハンデキャップが付いている。残念ながら正直に白状|仕《つかま》つる。
 その内に髯将軍は、全身から湯けむり立てて登って来る。続いて未醒子、木川子など、一行は尽《ことごと》く到着したが、例の剛力先生容易に到着する気遣いはない。
 見渡せば、群を抜ける八溝山の絶頂は雲表《うんぴょう》に聳《そび》え、臣下のごとき千山万峰は皆眼下に頭を揃えている。雲霧深くして、遠く那須野《なすの》の茫々《ぼうぼう》たる平原を一眸《いちぼう》に収める事の出来ぬのは遺憾《いかん》であったが、脚下に渦巻く雲の海の間から、さながら大洋中の群島のように、緑深き山々の頭を突出《とっしゅつ》している有様は、実になんともいう事の出来ぬ雄大なる光景であった。泰岳《たいがく》巨峰の風物は人間の精神を雄大ならしめるというが、全くその通りに思われる。
 衣水子は山嶽《さんがく》志でも読んで来たものと見え、得意になって頻《しき》りに八溝山の講釈をやる。
「そもそもこの八溝山というのは、全く海抜三千三百三十三尺という不思議な高さで、山中には三水《さんすい》と唱える金性水《きんせいすい》、竜毛水《りゅうもうすい》、白毛水《はくもうすい》の清泉が湧き、五つの瀑布《たき》と八つの丘嶽《おか》とまた八つの渓谷《たに》とがあって、孰《いず》れも奇観だ。ことにこの山中に生ずるサヤハタという木は、水中に在ってもよく燃えるので、その皮を炬火《たいまつ》として大雨中《だいうちゅう》でも振回して歩く事が出来るそうだ。先刻《さっき》通ったあの金性水の所には、昔時《むかし》四斗|樽《だる》程の大蛇が棲《す》んでおって、麓の村へ出てはしばしば人畜を害したので、須藤権守《すどうごんのかみ》という豪傑が退治したという口碑が伝わっている。現に今でもこの山中にはなかなか毒蛇が沢山いるという事だ、御用心御用心」と、首を縮めて腰の辺《あたり》を撫でている。

    (一二)汗臭い握飯《にぎりめし》

 その話は面白いが、しかし吾輩は山登りの汗が引込むに随《したが》い、だんだんと寒くなって仕方がなくなった。それもその筈《はず》である。吾輩は帽子もズボンもズブ濡れで、腰から上は丸裸、山頂の雲霧を交えた冷風がヒューヒュー吹き付けるのだから堪ったものではない。シャツや上衣《うわぎ》は今朝剛力の担ぐ荷物の中へ巻入れてしまったので、暑い道中は誠に結構であったが、この寒さでは閉口閉口。ブルブル震えながら山頂に立って、
「オーイ、剛力ィ――。オーイ、剛力ィ――」と叫んで見たが、応《こた》うるものは木精《こだま》ばかり、馬糞《うまくそ》剛力どこをマゴ付いている事やら。
 その内に再び雨さえ降って来たので、コリャ堪らぬ堪らぬと、杉田子はお年寄り役だけに、若手の面々を指揮して枯木枯枝を集めさせ、廃殿の横手に穴のような処を見付け出し、頻《しき》りに焚火《たきび》をしようと焦ってござるが、風が吹く、雨が降る、その上燃料が湿っているので火はなかなか付かぬ。エイ生意気な雨だと怒って見ても、雨は相手にならず。
 漸《ようや》く火の盛んに燃え付いた頃、剛力先生もまた漸く上《あが》って来たので、まず早速着服に及ぶ。何はともあれ腹が減って堪らぬから、一同は焚火を囲んで夕食に取掛かったが、これはしたり! 一行二日分の握飯は風呂敷に包んで若い方の剛力が背負《しょ》って来たのだが、この男元来の無精者、雨が降っても蔽《おお》いもしなかったものと見え、グチャグチャに崩れた上に、雨に濡れてベトベトになっている。
「こんな物食えるものか」と、怒っても、他《た》に食う物はないので、仕方なく一口やってみたが、これまたしたり! なんだか臭いようで、その塩からいこと夥《おびただ》しい。握飯がこんなに塩からい理由《わけ》はないと、よくよく調べてみると、ああ汚いかな、剛力先生数里の間汗だらけになって握飯を背負《しょ》って来たので、流るる汗が風呂敷を通して尽《ことごと》く握飯に染み込んだ次第、つまり握飯の汗漬《あせづけ》が出来た訳だ。
 コリャ堪らん。英雄豪傑の汗なら好んでもしゃぶるが、こんな懦弱《よわ》い奴の汗を舐《な》めるのは御免である。万一その懦弱が伝染しては堪らぬと、吾輩はペッと吐出してしまったが、それでも背に腹は替えられずと、苦い顔をしながら食った連中もあった。剛力は無論自分の汗だから平気である。得意になってムシャムシャ頬張っている面の癪《しゃく》に触る事!
 吾輩等は握飯を失ったので仕方なく、コーンビーフの缶詰を切り、握飯の中の梅干だけはまさか汗漬にもなるまいと、塩からい冷肉をパク付き、梅干をしゃぶっている心細さ!

    (一三)駆落《かけおち》の落書

 このミゼラブルな夕食を終ったのは、午後の九時前後であったろう。夜《よ》は暗く、ただ焚火の光
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