生|凹垂《へこた》れて容易に動かばこそ、仕方がないので、衣水子金剛力を出して、エイヤエイヤと剛力先生の尻を押上げたとの事。これではまるで反対《あべこべ》だ。呆れ返った剛力どのかな。
八溝山の登り口からは、一里半登山競走という事に相成った。凹垂《へこた》れ剛力などは眼中にない。後《あと》からゆっくり来いというので、一同疲れし膝栗毛に鞭を加え、力声《ちからごえ》を上げてぞ突貫する。初め山道は麓の村落で嚇《おどか》された程急ではないが、漸く樵夫《きこり》の通う位の細道で、両側から身長《みのたけ》よりも高き雑草で蔽《おお》われている処もある。赤土の急勾配、溝のごとくになり、辷《すべ》って転ぶ事も幾回なるを知らず、足を大の字|形《なり》に拡げて両側の草を踏みつつ、ヨタヨタ進まねば容易に登る事の出来ぬ場所も五、六町。巌角《いわ》の突出《つきい》で巌石《がんせき》の砕けて一面に転《ころ》ばっている坂道は、草鞋《わらじ》の底を破って足の裏の痛きこと夥《おびただ》しく、折から雲霧は山腹を包んで、雨はザアザア振って来れば、水はこの巌石の細道を滝のごとく上から流れ落ち、さながら急流を踏んで山を登るに異《ことな》らず。
ここに奇妙な事には、昨年日光の山中旅行では、常に凹垂れの大将となり、一行の厄介者であった吾輩、今日はいかなる風の吹き回しか、その元気|凄《すさ》まじく、水戸の津川五郎子と前後して先頭に立っている。ああら有難《ありがた》し、これも腹式呼吸のお陰《かげ》、強健術実行の賜物《たまもの》ぞと、勇気日頃に百倍し、半身裸体に雨を浴びてぞ突進する。こんな場合にいつも先人を争う髯将軍はいかにせしぞと後《のち》に聴けば、将軍、剛力の遅々《ぐずぐず》が癪《しゃく》に触って堪らず、暫時《しばし》叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》督励していた為に、思わず大いに遅れたという事だ。
だんだん山道を高く登れば、四方に聳《そび》ゆる群山は呼べば応《こた》えんばかり、今まで遥か高く見えた山々の絶頂も、いつの間にか視線と平行になり、更に登ればはや眼下に見えるようになる。その愉快なることいわん方なく、膝栗毛の進みもますます速く、来た処は、音に名高き胸突き八丁の登り口。日ははや暮れかかり、渓谷《たにま》も森林も寂寞《せきばく》として、真に深山の面影がある。
胸突き八丁の登り口に近く、青い苔の生《む》した断崖からは、金性水《きんせいすい》と呼ぶ清泉が滾々《こんこん》と瀑布《たき》のごとく谷間に流れ落ちている。これぞ八溝川の水源で、この細流に四方の水が合し、滔々《とうとう》として常州の山野を流れ行くのだ。
(一一)先登《せんとう》の自慢
吾輩と津川五郎子とは、百鯨《ひゃくげい》の長川《ちょうせん》を吸うがごとくガブガブ金性水を飲み、太鼓のように膨れた水腹を抱えて胸突き八丁を登って行く。頂上まで殆《ほとん》ど一直線に付けられた巌石《がんせき》の道で、西側には老杉《ろうさん》亭々《ていてい》として昼なお暗く、なるほど道の険しい事は数歩|前《さき》の巌角《いわかど》の胸を突かんばかり、胸突き八丁の名も道理《ことわり》だ。
しかしこんな事に凹垂《へこた》れる吾輩でない、などと先頭に立っているので大いに得意になり、津川子と共にエイヤエイヤの掛声を揚げて攀《よじ》登る。雨は漸《ようや》く霽《は》れたが、流るる汗は滝のごとく、それに梢から滴る露を浴びつつ、帽子もズボンもズブ濡れになって、頓《やが》て六、七町も登って上を仰ぐと、嬉しや嬉しや、頭上には古びた神社の屋根らしき物が見える。あすここそ頂上に相違ないと、余りの嬉しさに周章《あわ》てたものか、吾輩は巌角《いわかど》から足踏み滑らして十分《したたか》に向脛《むこうずね》を打った。痛い痛いと脛《すね》を撫でつつ漸くそこに達し、拝殿にも上らず、直ちにその後《うしろ》の丘の上に駆け上《あが》ると、ここぞ海抜三千三百三十三尺、高さからいえば富士山の三分の一位のものであるが、人跡余り到らぬ常州《じょうしゅう》第一の深山八溝山の絶頂である。
頂上には一個の石標があって、ここは常陸《ひたち》と下野《しもつけ》の国境《くにざかい》である事を示す。吾輩はすぐさまその石標の上に跳《おど》り上り、遠からん者は音にも聴け、近くば寄って眼にも見よ、吾こそは今日登山競走の第一着、冒険和尚|字《あざな》は春浪《しゅんろう》なりと呼《よば》わったが、音に聴く者も眼に見る者も側《かたわら》なる津川五郎子ばかり。四方《よも》の山々は、なんだ人間一|疋《ぴき》、蚊のような声を出すなと嘲《あざ》けっているように見える。未醒《みせい》子の漫画では、吾輩群を抜いて一着のように描《か》いてあるが、その実津川子と同着、シカモ吾輩は裸一貫、津川
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