《あひだ》は矢張《やはり》頭《あたま》が妙《めう》で、先刻《せんこく》と同《おな》じ樣《やう》にいろ/\の妄想《まうざう》が消《け》しても消《け》しても胸《むね》に浮《うか》んで來《き》て、魔《ま》の日《ひ》魔《ま》の刻《こく》――亞尼《アンニー》の顏《かほ》――微塵《みじん》に碎《くだ》けた白色檣燈《はくしよくしようとう》――怪《あやし》の船《ふね》――双眼鏡《さうがんきやう》などが更《かは》る/\夢《ゆめ》まぼろしと腦中《のうちゆう》にちらついて[#「ちらついて」に傍点]來《き》たが、何時《いつ》か晝間《ひる》の疲勞《つかれ》に二|時《じ》の號鐘《がうしよう》を聽《き》かぬ内《うち》に有耶無耶《うやむや》の夢《ゆめ》に落《お》ちた。

    第五回 「ピアノ」と拳鬪《けんとう》
[#ここから5字下げ]
船中の音樂會――鵞鳥聲の婦人――春枝夫人の名譽――甲板の競走――相撲――私の大閉口――曲馬師の虎
[#ここで字下げ終わり]
 翌朝《よくあさ》、銅鑼《どら》の鳴《な》る音《ね》に驚《おどろ》き目醒《めさ》めたのは八|時《じ》三十|分《ぷん》で、海上《かいじやう》の旭光《あさひ》は舷窓《げんさう》を透《たう》して鮮明《あざやか》に室内《しつない》を照《てら》して居《を》つた。船中《せんちゆう》八|時《じ》三十|分《ぷん》の銅鑼《どら》は通常《つうじやう》朝食《サツパー》の報知《しらせ》である。
『や、寢※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、56−7]《ねす》ぎたぞ。』と急《いそ》ぎ飛起《とびお》き、衣服《ゐふく》を更《あらた》め、櫛髮《くしけづり》を終《をは》つて、急足《いそぎあし》に食堂《しよくどう》へ出《で》て見《み》ると、壯麗《さうれい》なる食卓《しよくたく》の正面《しようめん》には船《ふね》の規則《きそく》として例《れい》のビール樽《だる》船長《せんちやう》は威儀《ゐぎ》を正《たゞ》して着席《ちやくせき》し、それより左右《さゆう》の兩側《りやうがわ》に、英《エイ》、佛《フツ》、獨《ドク》、露《ロ》、白《ハク》、伊等《イとう》各國《かくこく》の上等《じやうとう》船客《せんきやく》は何《いづ》れも美々《びゞ》しき服裝《ふくさう》して着席《ちやくせき》せる其中《そのなか》に交《まじ》つて、美《うる》はしき春枝夫人《はるえふじん》と可憐《かれん》の日出雄少年《ひでをせうねん》との姿《すがた》も見《み》えた。少年《せうねん》は私《わたくし》を見《み》るよりいと懷《なつ》かし氣《げ》に倚子《ゐす》から立《た》つて『おはよう。』とばかり可愛《かあい》らしき頭《かうべ》を垂《た》れた。『好朝《おはよう》。』と私《わたくし》も輕《かろ》く會釋《えしやく》して其《その》傍《かたはら》[#ルビの「かたはら」は底本では「からはら」]に進《すゝ》み寄《よ》り、何《なに》となく物淋《ものさび》し氣《げ》に見《み》えた春枝夫人《はるえふじん》に眼《まなこ》を轉《てん》じ
『夫人《おくさん》、昨夜《ゆふべ》は御安眠《ごあんみん》になりましたか。』と問《と》ふと、夫人《ふじん》は微《かす》かな笑《えみ》を浮《うか》べ
『イエ、此《この》兒《こ》はよく眠《ねむ》りましたが、私《わたくし》は船《ふね》に馴《な》れませんので。』と答《こた》ふ。さもありぬべし、雪《ゆき》を欺《あざむ》く頬《ほう》の邊《へん》、幾分《いくぶん》の蒼色《あをみ》を帶《お》びたるは、たしかに睡眠《ねむり》の足《た》らぬ事《こと》を證《しよう》して居《を》る。船中《せんちゆう》朝《あさ》の食事《しよくじ》は「スープ」の他《ほか》冷肉《れいにく》、「ライスカレー」、「カフヒー」それに香料《にほひ》の入《い》つた美麗《うるは》しき菓子《くわし》、其他《そのほか》「パインアツプル」等《とう》極《きは》めて淡泊《たんぱく》な食事《しよくじ》で、それが濟《す》むと、日出雄少年《ひでをせうねん》は何《なに》より前《さき》に甲板《かんぱん》を目指《めざ》して走《はし》つて行《ゆ》くので、夫人《ふじん》も私《わたくし》も其《その》後《あと》に續《つゞ》いた。
甲板《かんぱん》へ出《で》て見《み》ると、弦月丸《げんげつまる》は昨夜《ゆふべ》の間《あひだ》にカプリ[#「カプリ」に二重傍線]島《とう》の沖《おき》を※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、58−1]《す》ぎ、今《いま》はリコシア[#「リコシア」に二重傍線]の岬《みさき》を斜《なゝめ》に見《み》て進航《しんかう》して居《を》る、季節《せつ》は五|月《ぐわつ》の中旬《なかば》、暑《あつ》からず寒《さむ》からぬ時※[#「候」の「ユ」に代えて「工」、58−3]《じこう》、加《くは》ふるに此邊《このへん》一|帶《たい》の風光《ふうくわう》は宛然《えんぜん》たる畫中《ぐわちゆう》の景《けい》で、すでに水平線上《すゐへいせんじやう》に高《たか》く昇《のぼ》つた太陽《たいよう》は燦爛《さんらん》たる光《ひかり》を水《みづ》に落《おと》して金波《きんぱ》洋々《やう/\》たる海《うみ》の面《おも》には白帆《はくはん》の影《かげ》一|點《てん》二|點《てん》、其《その》間《あひだ》を海鴎《かいおう》の長閑《のどか》に群《むらが》り飛《と》んで居《を》る有樣《ありさま》などは自然《しぜん》に氣《き》も心《こゝろ》も爽《さはや》かになる程《ほど》で、私《わたくし》は昨夕《ゆふべ》以來《いらい》のさま/″\の不快《ふくわい》の出來事《できごと》をば洗《あら》ひ去《さ》つた樣《やう》に忘《わす》れてしまつた。春枝夫人《はるえふじん》もいと晴々《はれ/″\》しき顏色《がんしよく》で、そよ/\と吹《ふ》く南《みなみ》の風《かぜ》に鬢《びん》のほつれ毛《げ》を拂《はら》はせながら餘念《よねん》もなく海上《かいじやう》を眺《なが》めて居《を》る。日出雄少年《ひでをせうねん》は特更《ことさら》に子供心《こどもごゝろ》の愉快《ゆくわい》で愉快《ゆくわい》で堪《たま》らない、丁度《ちやうど》牧塲《まきば》に遊《あそ》ぶ小羊《こひつじ》のやうに其處此處《そここゝ》となく飛《と》んで歩《ある》いて、折々《をり/\》私《わたくし》の側《そば》へ走《はし》つて來《き》ては甲板《かんぱん》の上《うへ》に裝置《さうち》された樣々《さま/″\》の船具《せんぐ》について疑問《ぎもん》を起《おこ》し、又《また》は母君《はゝぎみ》の腕《うで》にすがつて遙《はる》かに見《み》ゆる島々《しま/″\》を指《ゆびざ》し『あれは子ープルス[#「子ープルス」に二重傍線]の家《いへ》の三|階《がい》から見《み》へるエリノ[#「エリノ」に二重傍線]島《しま》にその儘《まんま》です事《こと》、此方《こなた》のは頭《あたま》の禿《は》げた老爺《おぢい》さんが魚《さかな》を釣《つ》つて居《を》る形《かたち》によく似《に》て居《ゐ》ますねえ。』などゝいと樂《たの》し氣《げ》に見《み》えた。
日《ひ》は漸《やうや》く高《たか》く、風《かぜ》は凉《すゞ》しく、船《ふね》の進行《すゝみ》は矢《や》のやうである。私《わたくし》は甲板《かんぱん》の安樂倚子《あんらくゐす》に身《み》をよせて倩々《つら/\》と考《かんが》へた。昨日《きのふ》までは經廻《へめぐ》る旅路《たび》の幾《いく》千|里《り》、憂《う》き時《とき》も樂《たの》しき時《とき》も語《かた》らふ人《ひと》とては一人《ひとり》もなく、晨《あした》に明星《めうぜう》の清《すゞ》しき光《ひかり》を望《のぞ》み、夕《ゆふべ》に晩照《ゆふやけ》の華美《はなやか》なる景色《けしき》を眺《なが》むるにも只《たゞ》一人《ひとり》、吾《われ》と吾心《わがこゝろ》を慰《なぐさ》むるのみであつたが、昨日《きのふ》は圖《はか》らずも天外《てんぐわい》萬里《ばんり》の地《ち》で我《わが》同胞《どうほう》にめぐり逢《あ》ひ、恰《あだか》も天《てん》のなせるが如《ごと》き奇縁《きえん》にて今《いま》は優美《やさし》き春枝夫人《はるえふじん》、可憐《かれん》なる日出雄少年等《ひでをせうねんら》と同《おな》じ船《ふね》に乘《の》り同《おな》じ故國《ふるさと》に皈《かへ》るとは何《なに》たる幸福《しあはせ》であらう。今度《こんど》此《この》弦月丸《げんげつまる》の航海《かうかい》には乘客《じやうきやく》の數《かず》は五百|人《にん》に近《ちか》く船員《せんゐん》を合《あは》せると七百|人《にん》以上《いじやう》の乘組《のりくみ》であるが、其中《そのなか》で日本人《につぽんじん》といふのは夫人《ふじん》と少年《せうねん》と私《わたくし》との三|名《めい》のみ、此《この》不思議《ふしぎ》なる縁《えん》に結《むす》ばれし三人《みたり》は之《これ》から海原《うなばら》遠《とほ》く幾千里《いくせんり》、ひとしく此《この》船《ふね》に運命《うんめい》を托《たく》して居《を》るのであるが、若《も》し天《てん》に冥加《めうが》といふものが在《あ》るならば近《ちか》きに印度洋《インドやう》を※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60−3]《すぐ》る時《とき》も支那海《シナかい》を行《ゆ》く時《とき》にも、今日《けふ》の如《ごと》く浪路《なみぢ》穩《おだや》かに、頓《やが》て相《あひ》共《とも》に※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60−4]去《くわこ》の平安《へいあん》を祝《いは》ひつゝ芙蓉《ふよう》の峯《みね》を仰《あふ》ぐ事《こと》が出來《でき》るやうにと只管《ひたすら》天《てん》に祈《いの》るの他《ほか》はないのである。
ネープルス[#「ネープルス」に二重傍線]港《かう》から海路《かいろ》數《すう》千|里《り》、多島海《たたうかい》を※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60−7]《す》ぎ、地中海《ちちゆうかい》に入《い》り、ポートセツト[#「ポートセツト」に二重傍線]にて石炭《せきたん》及《およ》び飮料水《ゐんりようすゐ》を補充《ほじう》して、それより水先案内《みづさきあんない》をとつてスエス[#「スエス」に二重傍線]の地峽《ちけう》を※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60−9]《す》ぎ、往昔《むかし》から世界《せかい》第《だい》一の難所《なんしよ》と航海者《かうかいしや》の膽《きも》を寒《さむ》からしめた、紅海《こうかい》一|名《めい》死海《しかい》と呼《よ》ばれたる荒海《あらうみ》の血汐《ちしほ》の如《ごと》き波濤《なみ》の上《うへ》を駛《はし》つて、右舷《うげん》左舷《さげん》より眺《なが》むる海上《かいじやう》には、此邊《このへん》空氣《くうき》の不思議《ふしぎ》なる作用《さよう》にて、遠《とほ》き島《しま》は近《ちか》く見《み》え、近《ちか》き船《ふね》は却《かへつ》て遠《とほ》く見《み》え、其爲《そのため》に數知《かずし》[#ルビの「かずし」は底本では「かずす」]れず不測《ふそく》の禍《わざはひ》を釀《かも》して、此《この》洋中《やうちゆう》に難破《なんぱ》せる沈沒船《ちんぼつせん》の船體《せんたい》は既《すで》に海底《かいてい》に朽《く》ちて、名殘《なごり》の檣頭《しやうとう》のみ波間《はかん》に隱見《いんけん》せる其《その》物凄《ものすご》き光景《くわうけい》を吊《とふら》ひつゝ、進《すゝ》み進《すゝ》んで遂《つひ》に印度洋《インドやう》の海口《かいこう》ともいふ可《べ》きアデン[#「アデン」に二重傍線]灣《わん》に達《たつ》し、遙《はる》かにソコトラ[#「ソコトラ」に二重傍線]島《じま》を煙波《えんぱ》縹茫《へうぼう》たる沖《おき》に望《のぞ》むまで、大約《たいやく》二|週間《しうかん》の航路《かうろ》は毎日《まいにち》毎日《まいにち》天氣《てんき》晴朗《せいらう》で、海波《かいは》平穩《おだやか》で、十|數年《すうねん》來《らい》浪《なみ》を枕《まくら》に世《よ》を渡《わた》る水夫《すゐふ》共《ども》も未曾有《みそういう》の好《
前へ 次へ
全61ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
押川 春浪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング