したとも、そして今頃《いまごろ》は、あの保姆《ばあや》や、番頭《ばんとう》のスミス[#「スミス」に傍線]さんなんかに、お前《まへ》が温順《おとな》しくお船《ふね》に乘《の》つて居《を》る事《こと》を話《はな》していらつしやるでせう。』と言葉《ことば》やさしく愛兒《あいじ》の房々《ふさ/″\》せる頭髮《かみのけ》に玉《たま》のやうなる頬《ほゝ》をすり寄《よ》せて、餘念《よねん》もなく物語《ものがた》る、これが夫人《ふじん》の爲《た》めには、唯一《ゆいいつ》の慰《なぐさみ》であらう。かゝる優《やさ》しき振舞《ふるまひ》を妨《さまた》ぐるは、心《こゝろ》なき業《わざ》と思《おも》つたから、私《わたくし》は態《わざ》と其處《そこ》へは行《ゆ》かず、少《すこ》し離《はな》れてたゞ一人《ひとり》安樂倚子《アームチエヤー》の上《うへ》へ身《み》を横《よこた》へて、四方《よも》の風景《けしき》を見渡《みわた》すと、今宵《こよひ》は月《つき》明《あきら》かなれば、さしもに廣《ひろ》きネープルス[#「ネープルス」に二重傍線]灣《わん》も眼界《がんかい》到《いた》らぬ隈《くま》はなく、おぼろ/\に見《み》ゆるイスチヤ[#「イスチヤ」に二重傍線]の岬《みさき》には廻轉燈明臺《くわいてんとうめうだい》の見《み》えつ、隱《かく》れつ、天《てん》に聳《そび》ゆるモリス[#「モリス」に二重傍線]山《ざん》の頂《いたゞき》にはまだ殘《のこん》の雪《ゆき》の眞白《ましろ》なるに、月《つき》の光《ひかり》のきら/\と反射《はんしや》して居《を》るなど得《え》も言《い》はれず、港内《かうない》は電燈《でんとう》の光《ひかり》煌々《くわう/\》たる波止塲《はとば》の附近《ほとり》からずつと此方《こなた》まで、金龍《きんりう》走《わし》る波《なみ》の上《うへ》には、船艦《せんかん》浮《うか》ぶ事《こと》幾百艘《いくひやくさう》、出《で》る船《ふね》、入《い》る船《ふね》は前檣《ぜんしやう》に白燈《はくとう》、右舷《うげん》に緑燈《りよくとう》、左舷《さげん》に紅燈《こうとう》の海上法《かいじやうはふ》を守《まも》り、停泊《とゞ》まれる船《ふね》は大鳥《おほとり》の波上《はじやう》に眠《ねむ》るに似《に》て、丁度《ちやうど》夢《ゆめ》にでもあり相《さう》な景色《けしき》! 私《わたくし》は此樣《こん》な風景《ふうけい》は今迄《いまゝで》に幾回《いくくわい》ともなく眺《なが》めたが、今宵《こよひ》はわけて趣味《しゆみ》ある樣《やう》に覺《おぼ》えたので眼《まなこ》も放《はな》たず、それからそれと眺《なが》めて行《ゆ》く内《うち》、ふと眼《め》に止《とま》つた一つの有樣《ありさま》――それは此處《こゝ》から五百|米突《メートル》ばかりの距離《きより》に停泊《ていはく》して居《を》る一|艘《そう》の蒸※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《じようきせん》で、今《いま》某《ぼう》國《こく》軍艦《ぐんかん》からの探海燈《たんかいとう》は其邊《そのへん》を隈《くま》なく照《てら》して居《を》るので、其《その》甲板《かんぱん》の裝置《さうち》なども手《て》に取《と》るやうに見《み》える、此《この》船《ふね》噸數《とんすう》一千|噸《とん》位《くらゐ》、船體《せんたい》は黒色《こくしよく》に塗《ぬ》られて、二本《にほん》煙筒《チム子ー》に二本《にほん》檣《マスト》、軍艦《ぐんかん》でない事《こと》は分《わか》つて居《を》るが、商船《しやうせん》か、郵便船《ゆうびんせん》か、或《あるひ》は他《た》に何等《なにら》かの目的《もくてき》を有《いう》して居《を》る船《ふね》か夫《それ》は分《わか》らない。勿論《もちろん》、外形《ぐわいけい》に現《あらは》れても何《なに》も審《いぶか》しい點《てん》はないが、少《すこ》しく私《わたくし》の眼《め》に異樣《ゐやう》に覺《おぼ》えたのは、總《さう》噸數《とんすう》一千|噸《とん》位《くらゐ》にしては其《その》構造《かうざう》の餘《あま》りに堅固《けんご》らしいのと、また其《その》甲板《かんぱん》の下部《した》には數門《すもん》の大砲等《たいほうなど》の搭載《つみこまれ》て居《を》るのではあるまいか、其《その》船脚《ふなあし》は尋常《じんじやう》ならず深《ふか》く沈《しづ》んで見《み》える。今《いま》や其《その》二本《にほん》の烟筒《えんとう》から盛《さか》んに黒煙《こくえん》を吐《は》いて居《を》るのは既《すで》に出港《しゆつかう》の時刻《じこく》に達《たつ》したのであらう、見《み》る/\船首《せんしゆ》の錨《いかり》は卷揚《まきあ》げられて、徐々《じよ/\》として進航《しんかう》を始《はじ》めた。私《わたくし》は何氣《なにげ》なく衣袋《ポツケツト》を探《さぐ》つて、双眼鏡《さうがんきやう》を取出《とりいだ》し、度《ど》を合《あは》せて猶《な》ほよく其《その》甲板《かんぱん》の工合《ぐあひ》を見《み》やうとする、丁度《ちやうど》此時《このとき》先方《むかふ》の船《ふね》でも、一個《ひとり》の船員《せんゐん》らしい男《をとこ》が、船橋《せんけう》の上《うへ》から一心《いつしん》に双眼鏡《そうがんきやう》を我《わ》が船《ふね》に向《む》けて居《を》つたが、不思議《ふしぎ》だ、私《わたくし》の視線《しせん》と彼方《かなた》の視線《しせん》とが端《はし》なくも衝突《しようとつ》すると、忽《たちま》ち彼男《かなた》は双眼鏡《そうがんきやう》をかなぐり捨《す》てゝ、乾顏《そしらぬかほ》に横《よこ》を向《む》いた。其《その》擧動《ふるまひ》のあまりに奇怪《きくわい》なので私《わたくし》は思《おも》はず小首《こくび》を傾《かたむ》けたが、此時《このとき》何故《なにゆゑ》とも知《し》れず偶然《ぐうぜん》にも胸《むね》に浮《うか》んで來《き》た一《ひと》つの物語《ものがたり》がある。それは忘《わす》れもせぬ去年《きよねん》の秋《あき》の事《こと》で、私《わたくし》が米國《ベイこく》から歐羅巴《エウロツパ》へ渡《わた》る航海中《かうかいちう》で、ふと一人《ひとり》の英國《イギリス》の老水夫《らうすゐふ》と懇意《こんい》になつた。其《その》[#ルビの「その」は底本では「たの」]老水夫《らうすゐふ》がいろ/\の興味《けうみ》ある話《はなし》の中《なか》で、最《もつと》も深《ふか》く私《わたくし》の心《こゝろ》に刻《きざ》まれて居《を》るのは、世《よ》に一番《いちばん》に恐《おそ》ろしい航路《かうろ》は印度洋《インドやう》だとうふ物語《ものがたり》、亞弗利加洲《アフリカしう》の東方《ひがしのかた》、マダカッスル[#「マダカッスル」に二重傍線]島《たう》からも餘程《よほど》離《はな》れて、世《よ》の人《ひと》は夢《ゆめ》にも知《し》らない海賊島《かいぞくたう》といふのがある相《さう》だ、無論《むろん》世界地圖《せかいちづ》には見《み》る事《こと》の出來《でき》ぬ孤島《こたう》であるが、其處《そこ》には獰猛《どうまう》鬼神《きじん》を欺《あざむ》く數百《すうひやく》の海賊《かいぞく》が一團體《いちだんたい》をなして、迅速《じんそく》堅固《けんご》なる七|艘《さう》の海賊船《かいぞくせん》を浮《うか》べて、絶《た》えず其邊《そのへん》の航路《かうろ》を徘徊《はいくわい》し、時《とき》には遠《とほ》く大西洋《たいせいやう》の[#「大西洋《たいせいやう》の」は底本では「太西洋《たいせいやう》の」]沿岸《えんがん》までも船《ふね》を乘出《のりだ》して、非常《ひじやう》に貴重《きちやう》な貨物《くわぶつ》を搭載《とうさい》した船《ふね》と見《み》ると、忽《たちま》ち之《これ》を撃沈《げきちん》して、惡《にく》む可《べ》き慾《よく》を逞《たく》ましうして居《を》るとの話《はなし》。而《そ》して歐米《をうべい》の海員《かいゐん》仲間《なかま》では、此事《このこと》を知《し》らぬでもないが、如何《いか》にせん、此《この》海賊《かいぞく》團體《だんたい》の狡猾《かうくわつ》なる事《こと》は言語《げんご》に絶《た》えて、其《その》來《きた》るや風《かぜ》の如《ごと》く、其《その》去《さ》るも亦《ま》た風《かぜ》の如《ごと》く。海賊《かいぞく》共《ども》は如何《いか》にして探知《たんち》するものかは知《し》らぬが其《その》覬《ねら》ひ定《さだ》める船《ふね》は、常《つね》に第《だい》一|等《とう》の貴重《きちやう》貨物《くわぶつ》を搭載《とうさい》して居《を》る船《ふね》に限《かぎ》る代《かわ》りに、滅多《めつた》に其《その》形《かたち》を現《あら》はさぬ爲《ため》と、今《いま》一つには此《この》海賊《かいぞく》輩《はい》は何時《いつ》の頃《ころ》よりか、利《り》をもつて歐洲《をうしう》の某《ぼう》強國《きやうこく》と結托《けつたく》して、年々《ねん/\》五千|萬弗《まんどる》に近《ちか》い賄賂《わいろ》を納《をさ》めて居《を》る爲《ため》に、却《かへ》つて隱然《いんぜん》たる保護《ほご》を受《う》け、折《をり》ふし其《その》船《ふね》が貿易港《ぼうえきかう》に停泊《ていはく》する塲合《ばあひ》には立派《りつぱ》な國籍《こくせき》を有《いう》する船《ふね》として、其《その》甲板《かんぱん》には該《その》強國《きやうこく》の商船旗《しようせんき》を飜《ひるがへ》して、傍若無人《ぼうじやくむじん》に振舞《ふるま》つて居《を》る由《よし》、實《じつ》に怪《け》しからぬ話《はなし》である。
私《わたくし》は今《いま》、二本《にほん》煙筒《えんとう》二本《にほん》檣《マスト》の不思議《ふしぎ》なる船《ふね》を見《み》て、神經《しんけい》の作用《さよう》かは知《し》らぬがふと思《おも》ひ浮《うか》んだ此《この》話《はなし》、若《も》しかの老水夫《らうすゐふ》の言《げん》が眞實《まこと》ならば、此樣《こん》な船《ふね》ではあるまいか、其《その》海賊船《かいぞくせん》といふのは、兎《と》に角《かく》氣味《きみ》の惡《わる》い事《こと》だと思《おも》つて居《を》る内《うち》に、怪《あやし》の船《ふね》はだん/\と速力《そくりよく》を増《ま》して、我《わが》弦月丸《げんげつまる》の左方《さはう》を掠《かす》めるやうに※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、41−4]去《すぎさ》る時《とき》、本船《ほんせん》より射出《しやしゆつ》する船燈《せんとう》の光《ひかり》でチラ[#「チラ」に傍点]と認《みと》めたのは其《その》船尾《せんび》に記《しる》されてあつた「海蛇丸《かいだまる》」の三|字《じ》、「海蛇丸《かいだまる》」とはたしかにかの船《ふね》の名稱《めいしやう》である。見《み》る/\内《うち》に波《なみ》を蹴立《けた》てゝ、蒼渺《そうびやう》の彼方《かなた》に消《き》え去《うせ》た。
『あゝ、妙《めう》だ/\、今日《けふ》は何故《なぜ》此樣《こんな》に不思議《ふしぎ》な事《こと》が續《つゞ》くのだらう。』と私《わたくし》は思《おも》はず叫《さけ》んだ。
『おや、貴方《あなた》如何《どう》かなすつて。』と春枝夫人《はるえふじん》は日出雄少年《ひでをせうねん》と共《とも》に驚《おどろ》いて振向《ふりむ》いた。
『夫人《ふじん》!』と私《わたくし》は口《くち》を切《き》つたが、待《ま》てよ、今《いま》の塲合《ばあひ》に此樣《こん》な話《はなし》――寧《むし》ろ私《わたくし》一個人《いつこじん》の想像《さうざう》に※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、42−1]《す》ぎない事《こと》を輕々《かろ/″\》しく語《かた》つて、此《この》美《うる》はしき人《ひと》の、優《やさ》しき心《こゝろ》を痛《いた》めるでもあるまい、と心付《こゝろづ》いたので
『いや、何《なん》でもありませんよ、あはゝゝゝ。』と態《わざ》と聲《こゑ》高《たか》く笑《わら》つた。丁度《ちやうど》此時《このとき》、甲板《かんぱん
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