らいらく》なる虎髯大尉《こぜんたいゐ》、本名《ほんめい》轟大尉《とゞろきたいゐ》であつた。先《ま》づ艦長松島大佐《かんちやうまつしまたいさ》に向《むか》つて、何事《なにごと》をか二言《ふたこと》、三言《みこと》、公務《こうむ》の報告《ほうこく》を終《をは》つて後《のち》、私《わたくし》の方《ほう》に向直《むきなを》つた。快活《くわいくわつ》な調子《ちようし》で
『貴君《きくん》! 此《この》新造巡洋艦《しんざうじゆんやうかん》に「日《ひ》の出《で》」と命名《めいめい》されたのは全《まつた》く君《きみ》の想像《さうざう》の如《ごと》く日出雄少年《ひでをせうねん》の紀念《きねん》の爲《ため》と云《い》つてもよいのです。左樣《さう》ばかりではお釋《わか》りになるまい、濱島氏《はまじまし》は君《きみ》も御存《ごぞん》じの通《とう》り、日出雄少年《ひでをせうねん》をば有爲《りつぱ》な海軍々人《かいぐん/″\じん》に養成《やうせい》して、日本帝國《につぽんていこく》の干城《まもり》にと、兼《かね》ての志望《こゝろざし》であつたのが、弦月丸《げんげつまる》の沈沒《ちんぼつ》と共《とも》に、全《まつた》く水泡《すいほう》に歸《き》したと思《おも》はれたので、今《いま》は、其《その》愛兒《あいじ》をば國《くに》に獻《さゝ》ぐる事《こと》の出來《でき》ぬ代《かは》りに、せめては一艘《いつそう》の軍艦《ぐんかん》を獻納《けんなう》して、國《くに》に盡《つく》す日頃《ひごろ》の志《こゝろざし》を遂《と》げんものと、其《その》財産《ざいさん》の一半《いつぱん》を割《さ》き、三年《さんねん》の日月《じつげつ》を經《へ》て、英國《エイこく》テームス[#「テームス」に二重傍線]造船所《ざうせんじよ》で竣成《しゆんせい》したのが、此《この》軍艦《ぐんかん》「日《ひ》の出《で》」です。此《この》軍艦《ぐんかん》は最新式《さいしんしき》の三|等《とう》巡洋艦《じゆんやうかん》で、排水量《はいすいりよう》二千八百|噸《とん》、速力《そくりよく》二十三|節《ノツト》、帝國軍艦《ていこくぐんかん》「明石《あかし》」に髣髴《ほうふつ》たる艦《ふね》だが、もつと速力《そくりよく》は速《はや》い、防禦甲板《ぼうぎよかんぱん》は平坦部《へいたんぶ》二十|粍《ミリ》、傾斜部《けいしやぶ》五十三|粍《ミリ》、砲門《ほうもん》は八|吋《インチ》速射砲《そくしやほう》二|門《もん》、十二|珊《サンチ》速射砲《そくしやほう》六|門《もん》、四十七|粍《ミリ》速射砲《そくしやほう》十二|門《もん》、機關砲《きくわんほう》四|門《もん》あるです。日本政府《につぽんせいふ》は快《こゝろよ》く濱島氏《はまじまし》の志《こゝろざし》を容《ゐ》れ、我《わ》が海軍部内《かいぐんぶない》では、特別《とくべつ》の詮議《せんぎ》があつて、直《たゞ》ちに松島大佐閣下《まつしまたいさかくか》が回航委員長《くわいかうゐゐんちやう》の任《にん》に當《あた》る事《こと》となり、今《いま》や大佐《たいさ》は本艦々長《ほんかん/\ちやう》の資格《しかく》をもつて日本《につぽん》へ廻航中《くわいかうちう》、濱島氏夫妻《はまじましふさい》は、此《この》軍艦《ぐんかん》の獻納者《けんなうしや》であれば、本艦《ほんかん》引渡《ひきわた》しの儀式《ぎしき》の爲《ため》と、一《ひと》つには、最早《もはや》異境《ゐきやう》の空《そら》も飽果《あきは》てたれば之《これ》よりは、山《やま》美《うる》はしく、水《みづ》清《きよ》き日本《につぽん》に歸《かへ》らんと、子ープルス[#「子ープルス」に二重傍線]港《かう》から本艦《ほんかん》に便乘《びんじやう》した次第《しだい》です。』と語《かた》りかけて、轟大尉《とゞろきたいゐ》は虎髯《こぜん》を逆《ぎやく》に捩《ねじ》りつゝ
『軍艦《ぐんかん》日《ひ》の出《で》! 此《この》名《な》は確《たし》かに、日出雄少年《ひでをせうねん》の名《な》と或《ある》關係《くわんけい》を有《も》つて居《を》ると信《しん》じます。然《しか》し、濱島氏《はまじまし》は决《けつ》して虚名《きよめい》を貪《むさぼ》る人《ひと》でない、此《この》名《な》は彼《かれ》が求《もと》めた名《な》では無《な》いのです、すべて本國《はんごく》政府《せいふ》の任意《にんゐ》に定《さだ》めた事《こと》で、軍艦命名式《ぐんかんめいめいしき》の嚴肅《げんしゆく》なる順序《じゆんじよ》を經《へ》て下《くだ》されたのが「日《ひ》の出《で》」の三|字《じ》です。けれど私《わたくし》は、此《この》名《な》と日出雄少年《ひでをせうねん》の名《な》との符合《ふがふ》をば、决《けつ》して偶然《ぐうぜん》の事《こと》とは思《おも》ひません。』
『無論《むろん》偶然《ぐうぜん》の符合《ふがふ》ではありますまい。』と私《わたくし》は感嘆《かんたん》の叫《さけび》を禁《きん》じ得《え》なかつた。武村兵曹《たけむらへいそう》は前額《ぜんがく》を撫《な》でゝ
『やあ、だん/″\と目出度《めでた》い事《こと》が集《あつま》つて來《き》ますな。新造軍艦《しんざうぐんかん》は獻納《けんなう》される、海底戰鬪艇《かいていせんとうてい》は現《あら》はれて來《く》る、日本海軍《につぽんかいぐん》益々《ます/\》榮《さか》え――。』と快活《くわいくわつ》なる面《おもて》を擧《あ》げてニコと笑《わら》ふ。松島海軍大佐《まつしまかいぐんたいさ》も微笑《びせう》を帶《お》びて
『洵《まこと》に兵曹《へいそう》の言《げん》の如《ごと》く日本海軍《につぽんかいぐん》の爲《ため》に慶賀《けいが》すべき事《こと》である。今《いま》や遠《とほ》からず橄欖島《かんらんたう》のほとりで櫻木大佐《さくらぎたいさ》に對面《たいめん》し、それより本艦《ほんかん》「日《ひ》の出《で》」と櫻木大佐《さくらぎたいさ》の電光艇《でんくわうてい》とが舳艫《じくろ》相《あひ》並《なら》んで颯々《さつ/\》たる海風《かいふう》に帝國軍艦旗《ていこくぐんかんき》を飜《ひるが》へしつゝ頓《やが》て、帝國《ていこく》の軍港《ぐんかう》へと到着《たうちやく》した時《とき》には如何《いか》に壯烈《さうれつ》に且《か》つ愉快《ゆくわい》なる事《こと》だらう。』
轟大尉《とゞろきたいゐ》は双手《さうしゆ》を擧《あ》げて快哉《くわいさい》を叫《さけ》んだ。濱島武文《はまじまたけぶみ》は腕《うで》をさすつて
『實《じつ》に人間《にんげん》の萬事《ばんじ》は天意《てんゐ》の儘《まゝ》である。めぐり廻《めぐ》つて何事《なにごと》が幸福《かうふく》となるかも分《わか》らぬ。私《わたくし》は今《いま》やまた軍艦《ぐんかん》日《ひ》の出《で》のみならず一度《いちど》喪《うしな》つたと思《おも》つた日出雄《ひでを》をも國《くに》に獻《さゝ》ぐる事《こと》の出來《でき》るやうになつた事《こと》を感謝《かんしや》します。』と限《かぎ》りなき滿足《まんぞく》の色《いろ》を以《もつ》て夫人《ふじん》を顧見《かへりみ》た。
あゝ、人間《にんげん》の萬事《ばんじ》は實《じつ》に天意《てんゐ》の儘《まゝ》だと、私《わたくし》も深《ふか》く心《こゝろ》に感《かん》ずると共《とも》に、忽《たちま》ち回想《くわいさう》した一事《いちじ》がある。それは他《ほか》でもない、忘《わす》れもせぬ四年《よねん》以前《いぜん》の事《こと》、春枝夫人《はるえふじん》と、日出雄少年《ひでをせうねん》と、私《わたくし》との三人《みたり》が、子ープルス[#「子ープルス」に二重傍線]港《かう》の波止塲《はとば》を去《さ》らんとした時《とき》、濱島家《はまじまけ》の召使《めしつかひ》で、常時《そのころ》日出雄少年《ひでをせうねん》の保姆《うば》であつた亞尼《アンニー》とて、伊太利《イタリー》生《うま》れの年老《としおい》たる女《をんな》が、其《その》夜《よ》の出帆《しゆつぱん》をとゞめんとて、頻《しき》りに、魔《ま》の日《ひ》だの、魔《ま》の刻《こく》だの、黄金《わうごん》や眞珠《しんじゆ》の祟《たゝ》りだのと、色々《いろ/\》奇怪《きくわい》なる言《ことば》を繰返《くりかへ》した事《こと》がある、無論《むろん》、其時《そのとき》は無※[#「(禾+尤)/上/日」、343−10]《ばか》な事《こと》と笑《わら》ひ、また實際《じつさい》無※[#「(禾+尤)/上/日」、343−10]《ばか》な事《こと》には相違《さうゐ》ないのだが、それが偶然《ぐうぜん》にも符合《ふがふ》して、今《いま》になつて考《かんが》へると、恰《あだか》も※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、343−11]去《くわこ》の樣々《さま/″\》なる厄難《やくなん》の前兆《ぜんてう》であつたかの如《ごと》く、甞《かつ》て朝日島《あさひじま》の生活中《せいくわつちう》、櫻木大佐《さくらぎたいさ》に此事《このこと》を語《かた》つた時《とき》、思慮《しりよ》深《ふか》き大佐《たいさ》すら小首《こくび》を傾《かたむ》けた程《ほど》で、私《わたくし》の胸《むね》には、始終《しじう》附《つ》いて離《はな》れぬ疑問《ぎもん》であつたので、今《いま》機會《きくわい》を得《え》て
『何《なに》か此事《このこと》に就《つ》いてお心當《こゝろあた》りはありませぬか。』と春枝夫人《はるえふじん》に問《と》ひかけた。

    第二十九回 薩摩琵琶《さつまびは》
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春枝夫人の物語――不屆な悴――風清き甲板――國船の曲――腕押し脛押と參りませう――道塲破りめ――奇怪の少尉
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 春枝夫人《はるえふじん》は清《すゞ》しき眉《まゆ》を揚《あ》げ
『あゝ其事《そのこと》! 貴方《あなた》はよく覺《おぼ》えていらつしやいましたねえ。亞尼《アンニー》は眞個《ほんとう》に妙《めう》な事《こと》をと、其《その》時分《じぶん》は少《すこ》しも心《こゝろ》に留《と》めませんでしたが、後《のち》にそれと思《おも》ひ當《あた》りましたよ。全《まつた》く根《ね》なし言《ごと》ではありませんかつたの、それは斯《か》うなんです。』と、そよと吹《ふ》く海風《かいふう》に、鬢《びん》のほつれ毛《げ》を拂《はら》はせながら
『魔《ま》の日《ひ》、魔《ま》の刻《こく》とか申《もう》しましたねえ。其《その》夜《よ》に出帆《しゆつぱん》した弦月丸《げんげつまる》は、不思議《ふしぎ》にも、豫言《よげん》の通《とう》りに印度洋《インドやう》の沖《おき》に沈沒《ちんぼつ》して、妾《わたくし》が英國《エイこく》郵便船《ゆうびんせん》に救《すく》はれて、再《ふたゝ》び子ープルス[#「子ープルス」に二重傍線]の家《いへ》に歸《かへ》つた時《とき》には、亞尼《アンニー》の姿《すがた》は既《すで》に見《み》えませんでした。いろ/\探索《たんさく》して見《み》ましたが、誰《だれ》も行衞《ゆくゑ》を知《し》つて居《を》る人《ひと》はありません。本當《ほんたう》に奇妙《きめう》な事《こと》だと思《おも》つて居《を》ると、或《ある》日《ひ》の事《こと》、ウルピノ[#「ウルピノ」に二重傍線]山中《さんちう》とて、子ープルス[#「子ープルス」に二重傍線]の街《まち》からは餘程《よほど》離《はな》れた寒村《かんそん》の、浮世《うきよ》の外《そと》の尼寺《あまでら》から、一通《いつつう》の書状《てがみ》が屆《とゞ》きました、疑《うたがひ》もなき亞尼《アンニー》の手跡《しゆせき》で、はじめて仔細《しさい》が分《わか》りましたよ。』
『ど、ど、どんな書面《しよめん》で――。』と私《わたくし》と武村兵曹《たけむらへいそう》とは身《み》を乘出《のりだ》した。
夫人《ふじん》は明眸《めいぼう》に露《つゆ》を帶《お》びて
『可愛相《かあいさう》にねえ貴方《あなた》。其《その》書面《しよめん》によると亞尼《アンニー》は、弦月丸《げんげつまる》の沈沒《ちんぼつ》を聞《き》いて
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