》の――私《わたくし》と日出雄少年《ひでをせうねん》とのためには三度目《さんどめ》の、紀元節《きげんせつ》の祝日《いはひのひ》を迎《むか》ふると共《とも》に、目出度《めでた》き試運轉式《しうんてんしき》を擧行《きよかう》し得《う》る迄《まで》の、歡《よろこ》ばしき運《はこ》びに到《いた》つた頃《ころ》、私《わたくし》の擔任《たんにん》の自動鐵車《じどうてつしや》も全《まつた》く出來上《できあが》つた。
今《いま》になつて回想《かんがへ》ると、三|年《ねん》の月日《つきひ》もさて/\速《はや》いものだ。本國《ほんごく》から數千里《すうせんり》距《へだ》たつた此《この》印度洋《インドやう》中《ちう》の孤島《こたう》にあつて、隨分《ずゐぶん》故郷《こきよう》の空《そら》の懷《なつ》かしくなつた事《こと》も度々《たび/\》あつた――昔《むかし》の友人《ともだち》の事《こと》や――品川灣《しながはわん》の朝景色《あさげしき》や――上野淺草《うへのあさくさ》邊《へん》の繁華《にぎやか》な町《まち》の事《こと》や――新橋《しんばし》の停車塲《ステーシヨン》の事《こと》や――回向院《ゑこうゐん》の相撲《すまふ》の事《こと》や――神樂坂《かぐらざか》の縁日《えんにち》の事《こと》や――萬《よろづ》朝報《てうほう》の佛蘭西《フランス》小説《せうせつ》の事《こと》や――錦輝舘《きんきくわん》の政談《せいだん》演説《えんぜつ》の事《こと》や――芝居《しばゐ》の事《こと》や浪花節《なにはぶし》の事《こと》や、それから又《ま》た自分《じぶん》が學校時代《がくかうじだい》によく進撃《しんげき》した藪《やぶ》そばや梅月《ばいげつ》の事《こと》や、其他《そのほか》樣々《さま/″\》な事《こと》を懷想《くわいさう》して、翼《つばさ》あらば飛《と》んでも行《ゆ》きたいまで日本《につぽん》の戀《こひ》しくなつた事《こと》も度々《たび/\》あつたが、然《しか》し比較的《ひかくてき》に※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、225−7]去《くわこ》の三|年《ねん》は私《わたくし》の爲《ため》には凌《しの》ぎ易《やす》かつたよ、イヤ、其間《そのあひだ》には隨分《ずゐぶん》、諸君《しよくん》には想像《さうざう》も出來《でき》ない程《ほど》、面白《おもしろ》い事《こと》も澤山《たくさん》あつた。獅子狩《しゝがり》は何《な》んでも十|幾遍《いくへん》か催《もよう》されたが例《いつ》も武村兵曹《たけむらへいそう》の大功名《だいこうめう》であつた。また或《ある》時《とき》は海岸《かいがん》の家《いへ》の直《す》ぐ後《うしろ》の森《もり》へ、大鷲《おほわし》が巣《す》を營《いとな》んで居《を》るのを見付《みつ》けて、其《その》卵子《たまご》を捕《と》りに行《い》つて酷《ひど》い目《め》に遭遇《でつくわ》した事《こと》もある。毎日《まいにち》/\晨《あした》に星《ほし》を戴《いたゞ》いて大佐等《たいさら》と共《とも》に家《いへ》を出《い》で、終日《しうじつ》海底《かいてい》の造船所《ざうせんじよ》の中《なか》で汗水《あせみづ》を流《なが》して、夕暮《ゆふぐれ》靜《しづ》かな海岸《かいがん》を歸《かへ》つて來《く》ると、日出雄少年《ひでをせうねん》と猛犬《まうけん》の稻妻《いなづま》とは屹度《きつと》途中《とちう》まで迎《むかへ》に來《き》て居《を》る、それから暑《あつ》い時《とき》には家《いへ》の後《うしろ》を流《なが》れて居《を》る清流《せいりう》で身體《からだ》を清《きよ》め、凉《すゞ》しい時《とき》には留守居《るすゐ》の水兵《すいへい》や日出雄少年《ひでをせうねん》が凖備《ようゐ》して呉《く》れる此《この》孤島《しま》には不相應《ふさうおう》に奇麗《きれい》な浴湯《よくたう》へ入《はい》つて、頓《やが》て樂《たの》しい夕食《ゆふしよく》も終《をは》ると、此邊《このへん》は熱帶國《ねつたいこく》の常《つね》とて、年中《ねんちう》日《ひ》が長《なが》いので、食後《しよくご》一|時間《じかん》ばかりは大佐《たいさ》をはじめ一同《いちどう》海邊《かいへん》に出《い》でゝ戸外運動《こぐわいうんどう》に耽《ふけ》るのである。庭球《ローンテニス》もある、「クリツケツト」もある、射的塲《しやてきば》もある、相撲《すまふ》の土俵《どひやう》もある、いづれも櫻木大佐《さくらぎたいさ》が日本《につぽん》を出《い》づる前《まへ》から、かゝる孤島《こたう》の生活中《せいくわつちう》、一同《いちどう》の無聊《むれう》を慰《なぐさ》めんが爲《た》めに凖備《じゆんび》して來《き》た事《こと》とて「テニス、コード」も射的塲《しやてきば》も仲々《なか/\》整頓《せいとん》したものである、然《しか》し、此《この》島《しま》で一番《いちばん》流行《はや》るのは端艇競漕《ボートレース》と野球競技《ベースボール》とであつた。端艇競漕《ボートレース》は本職《ほんしよく》の事《こと》だから流行《はや》るのも無理《むり》は無《な》いが、大事《かんじん》の端艇《ボート》は甞《かつ》て起《おこ》つた大颶風《だいぐふう》の爲《た》めに大半《たいはん》紛失《ふんしつ》[#ルビの「ふんしつ」は底本では「ふんじつ」]してしまつたので、今《いま》殘《のこ》つて居《を》るのは「ギク」一|隻《さう》、「カツター」二|隻《さう》で、櫂《オール》も餘程《よほど》不揃《ふぞろひ》[#ルビの「ふぞろひ」は底本では「ぶぞろひ」]なので、とても面白《おもしろ》い競漕《きやうそう》などは出來《でき》ない、時々《とき/″\》やつて見《み》たが、「ハンデー」やら其他《そのほか》樣々《さま/″\》の遣繰《やりくり》やらで、いつも無邪氣《むじやき》な紛着《もんちやく》が起《おこ》つて、墨田川《すみだがは》の競漕《きやうそう》の樣《やう》に立派《りつぱ》には行《ゆ》かぬのである。野球《ボール》は其樣《そん》な災難《さいなん》が無《な》いから、毎日《まいにち》/\盛《さか》んなものだ[#「盛《さか》んなものだ」は底本では「盛《さか》んなものた」]、丁度《ちやうど》海岸《かいがん》の家《いへ》から一|町《ちやう》程《ほど》離《はな》れて、不思議《ふしぎ》な程《ほど》平坦《たいらか》な芝原《しばはら》の「ゲラウンド」があるので、其處《そこ》で「アウト」「ストライキ」の聲《こゑ》は夕暮《ゆふぐれ》の空《そら》に響《ひゞ》いて、審判者《アンパイヤー》の上衣《うはぎ》の一人《ひとり》黒《くろ》いのも目立《めだ》つて見《み》える。櫻木大佐《さくらぎたいさ》は今年《ことし》三十三|歳《さい》、身《み》は海軍大佐《かいぐんたいさ》であるが、日本人《につぽんじん》には珍《めづ》らしい迄《まで》かゝる遊戯《スポルト》を嗜好《すきこの》んで、また仲々《なか/\》達者《たつしや》である、昔《むかし》は投手《ピツチ》の大撰手《チヤンピオン》として、雄名《ゆうめい》其《その》仲間《なかま》には隱《かく》れもなかつた相《さう》な、今《いま》も其《その》面影《おもかげ》が殘《のこ》つて、此《この》朝日島《あさひたう》中《ちう》、武村兵曹《たけむらへいそう》と私《わたくし》とを除《のぞ》いたら其《その》次《つぎ》の撰手《チヤンピオン》と云《い》つてもよからう、私《わたくし》は世界《せかい》漫遊《まんゆう》以來《いらい》久《ひさ》しく「ボール」を手《て》にせぬから餘程《よほど》技倆《ぎりよう》も落《お》ちたらうが、それでも遊撃手《シヨルトストツプ》の位置《ゐち》に立《た》たせたら本國《ほんごく》横濱《よこはま》のアマチユーア[#「アマチユーア」に二重傍線]倶樂部《くらぶ》の先生《せんせい》方《がた》には負《ま》けぬ積《つもり》で御坐《ござ》る。武村兵曹《たけむらへいそう》の技倆《ぎりよう》はまた格別《かくべつ》で、何處《どこ》で練習《れんしう》したものか、鐵《てつ》の樣《やう》な腕《うで》から九種《こゝのつ》の魔球《カーブ》を捻《ひね》り出《だ》す[#「捻《ひね》り出《だ》す」は底本では「捻《ひね》り出《だ》ず」]工合《ぐあひ》は悽《すさ》まじいもので、兵曹《へいそう》を投手《ピツチ》にすると敵手《あひて》になる組《くみ》はなく、また打棒《バツト》が折《を》れて/\堪《たま》らぬので、此頃《このごろ》では大概《たいがい》左翼《レフト》の方《ほう》へ廻《まは》して居《を》るが、先生《せんせい》其處《そこ》からウンと力《ちから》を込《こ》めて熱球《ダイレクト》を投《な》げると、其《その》球《たま》がブーンと捻《うな》り聲《ごゑ》を放《はな》つて飛《と》んで來《く》る有樣《ありさま》、イヤ其《その》球《たま》が頭《あたま》へでも當《あた》つたら、此世《このよ》の見收《みをさ》めだと思《おも》ふと、氣味《きみ》が惡《わる》くて仲々《なか/\》手《て》も出《だ》せない程《ほど》である。大佐等《たいさら》一行《いつかう》が此《この》島《しま》へ來《き》たのは私《わたくし》より餘程《よほど》前《まへ》で、其《その》留守中《るすちう》、米國軍艦《べいこくぐんかん》「オリンピヤ」號《がう》が横濱《よこはま》へやつて來《き》て、音《おと》に名高《なだか》き、チヤーチ[#「チヤーチ」に傍線]の熱球《ねつきゆう》、魔球《まきゆう》が、我國《わがくに》野球界《やきゆうかい》の覇王《はわう》ともいふ可《べ》き第《だい》一|高等學校《かうとうがくかう》の撰手《せんしゆ》を打破《うちやぶ》つた事《こと》は、私《わたくし》が此《この》島《しま》へ漂着《へうちやく》する半年《はんとし》程《ほど》前《まへ》、英國《えいこく》倫敦《ろんどん》でちら[#「ちら」に傍点]と耳《みゝ》にした、之《こ》れはもう今《いま》から三四|年《ねん》も前《まへ》の事《こと》だが、實《じつ》に殘念《ざんねん》な次第《しだい》である。其後《そのゝち》一高軍《いつかうぐん》は物《もの》の見事《みごと》に復讎《ふくしゆう》を遂《と》げたであらうが、若《も》し未《いま》だならば私《わたくし》は竊《ひそ》かに希望《きぼう》して居《を》るのである、他日《たじつ》我等《われら》が此《この》孤島《こたう》を去《さ》つて日本《につぽん》へ歸《かへ》つた後《のち》、武村兵曹《たけむらへいそう》若《も》し軍艦《ぐんかん》に乘《じやう》じ、又《また》は大佐《たいさ》の電光艇《でんくわうてい》と共《とも》に世界《せかい》の各港《かくかう》を廻《めぐ》り、一度《ひとたび》北亞米利加《きたアメリカ》の沿岸《えんがん》に到《いた》つたならば、晩香坡《ヴワンクーバー》の南街公園《サウサルンストレートパーク》に於《おい》て、若《もし》くば黄金門《ゴルデンゲート》の光《ひかり》輝《かゞや》く桑港《サンフランシスコ》の廣野《ひろば》に於《おい》て――何處《いづく》にてもよし、其處《そこ》に米艦《べいかん》「オリンピヤ」號《がう》の投錨《とうべう》せるを見《み》ば、此方《こなた》武村兵曹《たけむらへいそう》を投手《ピツチ》として、彼方《かなた》音《おと》に名高《なだか》きチヤーチ[#「チヤーチ」に傍線]の一軍《いちぐん》と華々《はな/″\》しき勝敗《しようはい》を决《けつ》せんことを。敵《てき》は米國軍艦《べいこくぐんかん》、我《われ》は帝國軍艦《ていこくぐんかん》、水雷《すいらい》砲火《ほうくわ》ならぬ陸上《りくじやう》の運動《うんどう》をもつて互《たがひ》に挑《いど》み鬪《たゝか》ふも亦《ま》た一興《いつきよう》であらうと思《おも》ふ。
日出雄少年《ひでをせうねん》は如何《いか》に! 少年《せうねん》も亦《ま》た我等《われら》の遊《あそび》仲間《なかま》である。何時《いつ》でも第《だい》一に其《その》運動塲《うんどうじやう》に驅《か》けて行《ゆ》くのは彼《かれ》だ、其《その》身體《しんたい》の敏捷《びんしやう》に動《うご》く事《こと》とどんな痛《いた》い目《め》にも痛《いた》い顏
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