うめん》には現《あら》はれて居《を》らない程《ほど》で、櫻木大佐《さくらぎたいさ》の一行《いつかう》が、初《はじ》めて發見《はつけん》した迄《まで》は全《まつた》くの無人島《むじんとう》で、何國《いづこ》の領地《りようち》とも定《さだま》つて居《を》らぬ處《ところ》だから、國際法上《こくさいほふじやう》から言《い》つても「地球上《ちきゆうじやう》に、新《あらた》に發見《はつけん》されたる島《しま》は、其《その》發見者《はつけんしや》が屬《ぞく》する國家《こつか》の支配《しはい》を受《う》く」との原則《げんそく》で、當然《たうぜん》大日本帝國《だいにつぽんていこく》の新《しん》領地《りようち》となるべき處《ところ》である。そこで、大佐《たいさ》は今《いま》より二年《にねん》以前《いぜん》、其《その》一行《いつかう》と共《とも》に此《この》海岸《かいがん》[#ルビの「かいがん」は底本では「がいがん」]に上陸《じやうりく》した時《とき》に、先《ま》づ第一《だいいち》に此《この》島《しま》の名《な》を「朝日島《あさひじま》」と命《めい》じ、永久《えいきゆう》に大日本帝國《だいにつぽんていこく》の領土《りようど》たる可《べ》き事《こと》を宣言《せんげん》し、それより以來《いらい》、朝日《あさひ》輝《かゞや》く日《ひ》の御旗《みはた》は、絶《た》えず海岸《かいがん》の一方《いつぽう》の岬頭《みさき》に飜《ひるがへつ》て居《を》るが、さて熟々《つら/\》と考《かんが》へるに、大佐等《たいさら》が此《この》島《しま》に上陸《じやうりく》したそも/\の目的《もくてき》は、秘密《ひみつ》なる海底戰鬪艇《かいていせんとうてい》を製造《せいぞう》するが爲《ため》で、艇《てい》の竣成《しゆんせい》と共《とも》に、早晩《さうばん》此處《こゝ》を立去《たちさ》らねばならぬのである[#「立去《たちさ》らねばならぬのである」は底本では「去立《たちさ》らねばならぬのである」]。無論《むろん》、立去《たちさ》つた後《あと》でも、永久《えいきゆう》に日本帝國《につぽんていこく》の領土《りようど》であるべき事《こと》は疑《うたがひ》を容《い》れぬが、茲《こゝ》に頗《すこぶ》る憂慮《ゆうりよ》に堪《た》えぬのは、今《いま》や、眼《まなこ》を放《はな》つて天下《てんか》の形勢《けいせい》を眺《なが》むるに、歐米諸國《をうべいしよこく》は寸尺《すんしやく》の土地《とち》と雖《いへど》も自己《じこ》の領分《りようぶん》となさんと競《きそひ》爭《あらそ》ひ、若《も》し茲《こゝ》に、一個《いつこ》の無人島《むじんとう》でもあつて、些《いさゝ》かにても國家《こつか》の支配權《しはいけん》が完全《くわんぜん》に及《およ》んで居《を》らぬと見《み》るときは最早《もはや》國際法《こくさいほふ》の原則《げんそく》も何《なに》もあつたもので無《な》い、知《し》つても知《し》らぬ顏《かほ》[#ルビの「かほ」は底本では「なほ」]に、先占《せんせん》の人《ひと》が立《た》てたる旗《はた》をば押倒《おしたを》して、自國《じこく》の國旗《こくき》を飜《ひるがへ》し、詰《つま》る所《ところ》は大紛爭《だいもんちやく》を引起《ひきをこ》して、其間《そのあひだ》に多少《たせう》の利益《りえき》を占《し》めんと企《くわだ》てゝ居《を》る、實《じつ》に其《その》狡猾《かうくわつ》なる事《こと》言語《げんご》に絶《ぜつ》する程《ほど》だから、今《いま》櫻木大佐《さくらぎたいさ》は公明正大《こうめいせいだい》に此《この》島《しま》を發見《はつけん》し、名《なづ》けて朝日島《あさひとう》[#ルビの「あさひとう」は底本では「ちさひとう」]と呼《よ》び、之《これ》よりは我《わが》大日本帝國《だいにつぽんていこく》の領地《りようち》である事《こと》を表示《ひやうし》する爲《ため》に、幾本《いくほん》の日章旗《につしようき》を海岸《かいがん》に飜《ひるがへ》して置《お》いても、一朝《いつてう》此處《こゝ》を立去《たちさ》つた後《あと》の事《こと》は、少《すくな》からず氣遣《きづか》はれるのである。無論《むろん》、絶海《ぜつかい》の孤島《ことう》であれば、三年《さんねん》や五年《ごねん》の間《あひだ》に他國《たこく》の侵犯《しんはん》を、蒙《かうむ》るやうな事《こと》はあるまいが、安心《あんしん》のならぬは現《げん》に弦月丸《げんげつまる》の沈沒《ちんぼつ》の結果《けつくわ》、偶然《ぐうぜん》にも此《この》島《しま》に漂着《へうちやく》した吾等《われら》兩人《ふたり》の實例《じつれい》に照《てら》しても、櫻木大佐《さくらぎたいさ》の一行《いつかう》が、功成《こうな》り此處《こゝ》を立去《たちさ》つた後《あと》に、何時《いつ》他國人《たこくじん》が入替《いれかわ》つて、此《この》島《しま》に上陸《じようりく》せまいものでもない、貪慾《どんよく》飽《あ》く事《こと》を知《し》らぬ歐米人《をうべいじん》が、※[#「一/力」、207−4]一《まんいち》にも其後《そのゝち》此處《こゝ》に上陸《じやうりく》したなら夫《それ》こそ大變《たいへん》、何百本《なんびやくぽん》の日章旗《につしようき》が立《た》つて居《を》つたにしろ、其樣《そん》な事《こと》には※[#「てへん+勾」、第3水準1−84−72]《かま》はぬ、忽《たちま》ち日章旗《につしようき》は片々《きれ/″\》に引裂《ひきさ》かれて、代《かは》つて獅子《しゝ》や鷲章《わしゞるし》の旗《はた》が、我物顏《わがものがほ》に此《この》島《しま》を占領《せんりよう》する事《こと》であらう。元《もと》より紛議《ふんぎ》も葛藤《かつとう》も恐《おそ》るゝ所《ところ》でない、正理《せいり》は我《われ》にあるのだが、然《しか》し※[#「一/力」、207−8]里《ばんり》の波濤《はたう》を距《へだ》てたる絶島《ぜつとう》に於《おい》て、既《すで》に唯一《ゆいいつ》の確證《くわくしよう》たる可《べ》き日章旗《につしようき》を徹去《てつきよ》されたる後《のち》は、我《われ》に十二|分《ぶん》の道理《どうり》があつても、一個《いつこ》の證據《しようこ》なく、天下《てんか》の承認《しようにん》を得《う》る事《こと》は餘程《よほど》困難《こんなん》であらうと思《おも》ふ。
今《いま》は左迄《さまで》に有要《いうえう》とも見《み》えぬ此《この》孤島《はなれじま》も、今《いま》より三十|年《ねん》若《もし》くば五十|年《ねん》の後《のち》、我《わが》日本《につぽん》が世界《せかい》に大權力《だいけんりよく》を振《ふる》はんとする時《とき》、西方《にしのかた》歐羅巴《エウロツパ》に對《たい》する軍略上《ぐんりやくじやう》、如何《いか》に得易《えやす》からざる要鎭《えうちん》となるかは、追《おつ》て分《わか》る時《とき》もあらう。兎《と》も角《かく》も、决《けつ》して他國《たこく》には渡《わた》すまじき此《この》朝日島《あさひじま》の占領《せんりよう》をば、今《いま》より完全《くわんぜん》に繼續《けいぞく》して、櫻木大佐等《さくらぎたいさら》の立去《たちさ》つた後《あと》と雖《いへど》も、動《うご》かし難《がた》き確證《くわくしよう》を留《とゞ》め、※[#「一/力」、208−5]一《まんいち》他國《たこく》の容嘴《ようし》する塲合《ばあひ》には、一言《いちげん》の下《した》に、大日本帝國《だいにつぽんていこく》の領地《りようち》である事《こと》を明示《めいし》し得《う》る計畫《けいくわく》を立《た》てゝ置《お》かねばならぬ。
斯《か》く語《かた》りかけた櫻木大佐《さくらぎたいさ》は一息《ひといき》つき
『そこで一個《ひとつ》の妙案《めうあん》を考《かんが》へ出《だ》したのです。』と言《い》ひながら、頭《かうべ》を廻《めぐ》らし
『實《じつ》は、此《この》妙案《めうあん》の發明者《はつめいしや》は、武村兵曹《たけむらへいそう》と云《い》つてもよい。』と打笑《うちわら》ひつゝ
『武村兵曹《たけむらへいそう》、悉《くわ》しく汝《おまへ》から語《かた》つてあげい。』
聲《こゑ》に應《おう》じて、快活《くわいくわつ》なる兵曹《へいそう》は進《すゝ》み出《で》た。
『私《わたくし》は喋《しやべ》る事《こと》が下手《へた》だから、分《わか》らなかつたら、何度《なんど》でも聽返《きゝかへ》して下《くだ》さい。』と例《れい》の口調《くちよう》で
『其《その》妙案《めうあん》といふのは斯《か》うなんです。貴下《あなた》も御存《ごぞん》じの通《とう》り、此《この》朝日島《あさひじま》は、此《この》家《いへ》の附近《ふきん》を除《のぞ》いては、到《いた》る處《ところ》皆《みな》危險《きけん》な塲所《ばしよ》で、深山《しんざん》へ十|里《り》以上《いじやう》も進《すゝ》んで行《ゆ》くと、天狗《てんぐ》が居《を》るか魔性《ませう》が居《を》るか分《わか》らない、イヤ、正歟《まさか》、其樣《そん》な者《もの》は居《ゐ》まいが、毒蛇《どくじや》や、猛狒《ゴリラ》や、獅子《しゝ》や、虎《とら》の類《るい》が數知《かずし》れず棲《す》んで居《を》つて、私《わたくし》の樣《やう》な無鐵砲《むてつぽう》な人間《にんげん》でも、とても恐《おそ》ろしくつて行《い》けぬ程《ほど》だから、誰人《たれ》だつて足踏《あしふみ》は出來《でき》ませない。そこでね、私《わたくし》の考《かんが》へるには、今《いま》一個《ひとつ》の堅固《けんご》な紀念塔《きねんたふ》を作《こしら》へて、其《その》深山《しんざん》へ持《も》つて行《い》つて建《た》てゝ來《く》るのだ、紀念塔《きねんたう》の表面《ひやうめん》には、ちやんと朝日島《あさひじま》と刻《きざ》んで、此處《こゝ》は日本帝國《につぽんていこく》の領地《りようち》で御坐《ござ》る、何年《なんねん》、何月《なんげつ》、何日《なんにち》、櫻木海軍大佐《さくらぎかいぐんたいさ》之《これ》を發見《はつけん》すと記《しる》して置《お》くのだ。すると、吾等《われら》が此《この》島《しま》を立去《たちさ》つた後《あと》で、外國人《ぐわいこくじん》共《ども》がやつて來《き》ても大丈夫《だいじやうぶ》です。何《なに》、海岸《かいがん》邊《へん》の日《ひ》の丸《まる》の旗《はた》を押倒《おしたを》して、獅子《しゝ》だの、鷲印《わしじるし》の旗《はた》なんか立《た》てた處《ところ》で無益《だめだ》/\。此《この》紀念塔《きねんたふ》の建《た》てられた深山《しんざん》までは、危險《きけん》だから誰《たれ》も行《い》けない、行《い》かなければ其樣《そん》な證據物《しようこぶつ》のある事《こと》は知《し》らないで居《を》る。※[#「一/力」、210−5]一《まんいち》行《い》けば忽《たちま》ち猛獸《まうじう》毒蛇《どくじや》に喰殺《くひころ》されてしもうから、死《し》んだ人間《にんげん》は無《な》いも同然《どうぜん》。そこで、外國人《ぐわいこくじん》が吾等《われら》の立去《たちさ》つた後《あと》で、此《この》島《しま》へ上陸《じやうりく》して、此處《こゝ》は自分《じぶん》が、第一《だいいち》に發見《はつけん》した島《しま》だなんかと、管《くだ》を卷《ま》ひたつて無益《だめ》と申《もう》すのだ。此方《こつち》にはちやんと證據物件《しようこぶつけん》が厶《ござ》る、そんなに八釜《やかま》しく言《い》ふなら、サア來《き》て見《み》なせいと云《い》つて、山奧《やまおく》へ連《つ》れて行《い》つて、其《その》紀念塔《きねんたふ》を見《み》せてやるのだ、どうだい此《この》字《じ》が讀《よ》めぬか「明治《めいじ》何年《なんねん》、何月《なんげつ》、何日《なんにち》、大日本帝國《だいにつぽんていこく》海軍大佐櫻木重雄《かいぐんたいささくらぎしげを》本島《ほんとう》を發見《はつけん》す、今《いま》は大日本帝國《だいにつぽんていこく》の占領地《せんりようち
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