《せきじやう》いろ/\な話《はなし》があつた。大佐《たいさ》の語《かた》る處《ところ》によると、海賊島《かいぞくたう》云々《うんぬん》の風聞《ふうぶん》も實際《じつさい》の事《こと》で、其《その》海賊《かいぞく》仲間《なかま》と或《ある》強國《きようこく》との間《あひだ》に、一種《いつしゆ》の密約《みつやく》の存《そん》して居《を》る事《こと》も、海事《かいじ》に審《くわ》しき船員《せんゐん》社會《しやくわい》には、殆《ほとん》ど公然《こうぜん》の秘密《ひみつ》となつて居《を》る由《よし》。かゝる惡魔《あくま》はどうしても塵殺《みなごろし》しなければならぬと、水兵等《すいへいら》一同《いちどう》の意氣組《いきぐみ》。
さてまた、弦月丸《げんげつまる》沈沒《ちんぼつ》の間際《まぎわ》に、船長《せんちやう》をはじめ船員《せんゐん》一同《いちどう》の醜態《しゆうたい》は、聽《き》く人《ひと》愕《おどろ》き怒《いか》らざるなく、短氣《たんき》の武村兵曹《たけむらへいそう》は眼《め》を光《ひか》らして
『やあ/\、呆《あき》れた人間《にんげん》共《ども》だ、其樣《そん》な臆病《をくびやう》な船長《せんちやう》なんかは、逃《に》げたとてどうせ六《ろく》な事《こと》はあるまい、波《なみ》でも喰《くら》つて斃死《へたば》つてしまつたらうが、※[#「一/力」、162−2]一《まんいち》生《い》きてゞも居《ゐ》やうものなら、此《この》武村新八《たけむらしんぱち》が承知《しやうち》しねえ、世間《せけん》の見懲《みせしめ》に、一《ひと》ツ横《よこ》ツ腹《ぱら》でも蹴破《けやぶ》つて呉《く》れようかな。』と怒鳴《どな》る。大佐《たいさ》は笑《わら》ひ、水兵等《すいへいら》は腕《うで》を叩《たゝ》き、日出雄少年《ひでをせうねん》と私《わたくし》とは爽快《さわやか》に顏《かほ》を見合《みあ》はした。
斯《かゝ》る物語《ものがたり》に不知不測《しらずしらず》夜《よ》を更《ふか》し、頓《やが》て私《わたくし》の遭難《さうなん》實談《じつだん》も終《をは》ると、櫻木大佐《さくらぎたいさ》は、此時《このとき》稍《や》や面《おもて》を改《あらた》めて私《わたくし》に向《むか》つた。
『今迄《いまゝで》のお話《はなし》で、君《きみ》が此《この》島《しま》へ漂着《へうちやく》の次第《しだい》は分《わか》つたが、さて此後《このゝち》は如何《いか》になさる御决心《ごけつしん》です。』
决心《けつしん》如何《いかん》といふのは、吾等《われら》兩人《りようにん》かゝる絶島《ぜつたう》に漂着《へうちやく》した今《いま》、無理《むり》にも本國《ほんごく》へ皈《かへ》りたいか、又《また》は或《ある》便宜《べんぎ》を得《う》るまで、大佐等《たいさら》と此《この》島《しま》に滯在《たいざい》する覺悟《かくご》があるかとの問《とひ》だと私《わたくし》は考《かんが》へたので、無論《むろん》、一日《いちにち》も速《すみや》かに日本《につぽん》へ皈《かへ》りたいのは山々《やま/\》だが、前後《ぜんご》の事情《じじやう》を察《さつ》すると、今《いま》此人《このひと》に向《むか》つて、其樣《そん》な我儘《わがまゝ》は言《い》はれぬのである。で私《わたくし》は簡單《かんたん》に
『たゞ天命《てんめい》と、大佐閣下《たいさかくか》とに、吾等《われら》の運命《うんめい》を委《ゆだ》ぬるのみです。』と答《こた》へると、大佐《たいさ》は暫時《しばし》小首《こくび》を傾《かたむ》けたが
『然《しか》らば、君等《きみら》は或《ある》時期《とき》まで、此《この》島《しま》に滯在《たいざい》せねばなりません。』と斷乎《だんこ》と言放《いひはな》つた。
私《わたくし》は默《だま》つて點頭《うなづ》いた。
大佐《たいさ》は言《げん》をつゞけ
『實《じつ》に致《いた》し方《かた》が無《な》いのです。勿論《もちろん》君《きみ》が御决心《ごけつしん》で、運命《うんめい》を全《まつた》く天《てん》に任《まか》せて、再《ふたゝ》び小端艇《せうたんてい》で、印度洋《インドやう》の波《なみ》を越《こ》えて、本國《ほんごく》へお皈《かへ》りにならうと仰《お》つしやれば、仕方《しかた》がありませんが、私《わたくし》は决《けつ》して、其樣《そん》な無法《むほふ》な事《こと》を望《のぞ》みません、其他《そのた》の手段《しゆだん》では、到底《とうてい》今日《けふ》や明日《あす》に、此《この》島《しま》を出發《しゆつぱつ》する方法《てだて》もありませんから、止《や》むを得《え》ず、或《ある》時期《とき》までは、吾等《われら》の一行《いつかう》と共《とも》に、此《この》絶島《ぜつたう》に御滯在《ごたいざい》の外《ほか》はありません。』
『それは覺悟《かくご》の前《まへ》です。』と私《わたくし》は答《こた》へて
『たゞ無用《むよう》なる吾等《われら》が、徒《いたづ》らに貴下等《きから》を煩《わずら》はすのを憂《うれ》ふるのみです。』と語《かた》ると、大佐《たいさ》は急《いそ》ぎ其《その》言《げん》を遮《さへぎ》り
『いや/\、私《わたくし》は却《かへつ》て、天外《てんぐわい》※[#「一/力」、164−6]里《ばんり》の此樣《こん》な島《しま》から、何時《いつ》までも、君等《きみら》に故郷《こきよう》の空《そら》を望《のぞ》ませる事《こと》を情《なさけ》なく感《かん》ずるのです。』と嘆息《たんそく》しつゝ
『あゝ、此樣《こん》な時《とき》に、せめて浪《なみ》の江丸《えまる》が無難《ぶなん》であつたらば。』と武村兵曹《たけむらへいそう》の顏《かほ》を見《み》た。
浪《なみ》の江丸《えまる》とは、例《れい》の反古《はご》新聞《しんぶん》に記《しる》されて居《を》つた名《な》で、はじめ、大佐《たいさ》の一行《いつかう》を此《この》島《しま》へ搭《の》せて來《き》た一大《いちだい》帆前船《ほまへせん》、あゝ、あの船《ふね》も、今《いま》は何《なに》かの理由《りいう》で、此《この》海岸《かいがん》にあらずなつたかと、私《わたくし》は窓《まど》の硝子越《がらすご》しに海面《かいめん》を眺《なが》めると、星影《ほしかげ》淡《あわ》き波上《はじやう》には、一二|艘《そう》淋《さび》し氣《げ》に泛《うか》んで居《を》る小端艇《せうたんてい》の他《ほか》には、此《この》大海原《おほうなばら》を渡《わた》るとも見《み》ゆべき一艘《いつそう》の船《ふね》もなかつた。
武村兵曹《たけむらへいそう》は腕《うで》を組《く》んで
『さあ、斯《か》うなると惜《を》しい事《こと》をした。浪《なみ》の江丸《えまる》さへ無事《ぶじ》であつたら、私《わたくし》が巧《うま》く舵《かぢ》をとつて、直《す》ぐに日本《につぽん》まで送《おく》つてあげるのだが、此前《このまへ》の大嵐《おほあらし》の晩《ばん》に、とうとう磯《いそ》に打上《うちあ》げられて、めちや/\になつて仕舞《しま》つたから、今更《いまさら》何《なん》といふても仕方《しかた》が無《な》い。』と言《い》ひつゝ少年《せうねん》に向《むか》ひ
『だが、此《この》島《しま》も仲々《なか/\》面白《おもしろ》いよ、魚《さかな》も澤山《たんと》釣《つ》れるし、獅子狩《ししがり》も出來《でき》るし、今《いま》に皈《かへ》りたく無《な》くなるよ。』
大佐《たいさ》は苦笑《くせう》しながら
『誰《たれ》が、此樣《こん》な離《はな》れ島《じま》に永住《えいぢゆう》を望《のぞ》むものか。』とばかり、私《わたくし》に向《むか》ひ
『然《しか》し、何事《なにごと》も天命《てんめい》です。けれど君《きみ》よ、决《けつ》して絶望《ぜつぼう》し玉《たま》ふな。吾等《われら》は何時《いつ》か、非常《ひじやう》の幸福《かうふく》を得《え》て、再《ふたゝ》び芙蓉《ふよう》の峯《みね》を望《のぞ》む事《こと》が出來《でき》ませう――イヤ確信《くわくしん》します、今《いま》より三年《さんねん》の後《のち》は屹度《きつと》其時《そのとき》です。』と言放《いひはな》つて、英風《えいふう》颯々《さつ/\》、逆浪《げきらう》岩《いわ》に碎《くだ》くる海邊《かいへん》の、唯《と》ある方角《ほうがく》を眺《なが》めた。
第十四回 海底《かいてい》の造船所《ざうせんじよ》
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大佐の後姿がチラリと見えた――獅子狩は眞平御免だ――猛犬稻妻秘密の話――屏風岩――物凄い跫音――鐵門の文字
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其《その》翌朝《よくてう》日出雄少年《ひでをせうねん》と私《わたくし》とが目醒《めざ》めたのは八|時《じ》※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、166−10]《すぎ》で櫻木海軍大佐《さくらぎかいぐんたいさ》は、武村兵曹《たけむらへいそう》をはじめ一隊《いつたい》の水兵《すいへい》を引卒《ひきつ》れて、何處《いづこ》へか出去《いでさ》つた後《あと》であつた。朝餉《あさげ》を運《はこ》んで來《き》た料理方《れうりかた》の水兵《すいへい》は、大佐《たいさ》が外出《ぐわいしゆつ》の時《とき》の言傳《ことづて》だとて、左《さ》の如《ごと》く語《かた》つた。
『大佐《たいさ》は、今朝《けさ》も定《さだま》れる職務《しよくむ》に參《まゐ》るが、昨夜《さくや》は取紛《とりまぎ》れて語《かた》らず、今朝《こんてう》は猶《な》ほ御睡眠中《ごすいみんちう》なれば、此《この》水兵《すいへい》を以《もつ》て申上《もうしあ》げるが、此《この》住家《すみか》の十|町《ちやう》以内《いない》なれば、何處《いづく》へ行《ゆ》かるゝも御自由《ごじいう》なれど、其《その》以外《いぐわい》は、猛獸《まうじう》毒蛇等《どくじやとう》の危害《きがい》極《きわ》めて多《おほ》ければ、决《けつ》して足踏《あしぶ》みし玉《たま》ふな、大佐《たいさ》は夕刻《ゆふこく》に皈《かへ》つて、再《ふたゝ》び御目《おめ》にかゝる可《べ》し。』との注意《ちうゐ》。私《わたくし》も少年《せうねん》も、今猶《いまな》ほ十|數日《すうにち》以來《いらい》の疲勞《つかれ》を感《かん》じて居《を》るので、其樣《そんな》に高歩《たかある》きする氣遣《きづかひ》はないが、まして此《この》注意《ちうゐ》があつたので、一層《いつそう》心《こゝろ》を配《くば》り、食後《しよくご》は、日記《につき》を書《か》いたり、少年《せうねん》と二人《ふたり》で、海岸《かいがん》の岩《いわ》の上《うへ》から果《はて》しなき大海原《おほうなばら》を眺《なが》めたり、家《いへ》の後《うしろ》の椰子林《やしばやし》で、無暗《むやみ》に美《うるは》しき果實《くわじつ》を叩《たゝ》き落《おと》したり、または家《いへ》に殘《のこ》つて居《を》つた水兵《すいへい》に案内《あんない》されて、荒磯《あらいそ》のほとりで、海鼈《うみがめ》を釣《つ》つたりして、一日《いちにち》を暮《くら》してしまつた。
夕日《ゆふひ》の沈《しづ》む頃《ころ》、櫻木大佐《さくらぎたいさ》も武村兵曹《たけむらへいそう》も、痛《いた》く疲《つか》れて皈《かへ》つて來《き》たが、終日《しうじつ》延氣《のんき》に遊《あそ》んだ吾等《われら》兩人《りやうにん》の顏《かほ》の、昨日《きのふ》よりは餘程《よほど》勝《すぐ》れて見《み》へるとて、大笑《おほわら》ひであつた。此《この》夜《よ》も夜更《よふけ》まで色々《いろ/\》の快談《くわいだん》。
翌朝《よくあさ》、私《わたくし》はまだ大佐《たいさ》の外出《ぐわいしゆつ》前《まへ》だらうと思《おも》つて、寢床《ねどこ》を離《はな》れたのは六時《ろくじ》頃《ごろ》であつたが、矢張《やはり》大佐等《たいさら》は、今少《いますこ》し前《まへ》に家《いへ》を出《で》たといふ後《のち》、また※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、168−6]《ぬ》かつたりと、少年《せうねん》と二人《ふたり》で、二階《にかい》の窓《まど》に倚《よ》つて眺《
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