したのだから堪《たま》らない。私《わたくし》はハツト思《おも》つて一時《いちじ》は遁出《にげだ》さうとしたが、今更《いまさら》遁《に》げたとて何《なん》の甲斐《かひ》があらう、もう絶體絶命《ぜつたいぜつめい》と覺悟《かくご》した時《とき》、猛狒《ゴリラ》はすでに目前《もくぜん》に切迫《せつぱく》した。身長《みのたけ》七|尺《しやく》に近《ちか》く、灰色《はいいろ》の毛《け》は針《はり》の如《ごと》く逆立《さかだ》ち、鋭《するど》き爪《つめ》を現《あら》はして、スツと屹立《つゝた》つた有樣《ありさま》は、幾百十年《いくひやくじふねん》の星霜《せいさう》を此《この》深林《しんりん》に棲暮《すみくら》したものやら分《わか》らぬ。猛惡《まうあく》なる猴《さる》の本性《ほんしやう》として、容易《ようゐ》に手《て》を出《だ》さない、恰《あだか》も嘲《あざけ》る如《ごと》く、怒《いか》るが如《ごと》く、其《その》黄色《きいろ》い齒《は》を現《あら》はして、一聲《いつせい》高《たか》く唸《うな》つた時《とき》は、覺悟《かくご》の前《まへ》とはいひ乍《なが》ら、私《わたくし》は頭《あたま》から冷水《ひやみづ》を浴《あ》びた樣《やう》に戰慄《せんりつ》した、けれど今更《いまさら》どうなるものか。私《わたくし》は日出雄少年《ひでをせうねん》を背部《うしろ》に庇護《かば》つて、キツと猛狒《ゴリラ》の瞳孔《ひとみ》を睨《にら》んだ。すべて如何《いか》なる惡獸《あくじゆう》でも、人間《にんげん》の眼光《がんくわう》が鋭《するど》く其《その》面《めん》に注《そゝ》がれて居《を》る間《あひだ》は、决《けつ》して危害《きがい》を加《くわ》へるものでない、其《その》眼《め》の光《ひかり》が次第々々《しだい/\》に衰《おとろ》へて、頓《やが》て茫乎《ぼんやり》とした虚《すき》を窺《うかゞ》つて、只《たゞ》一息《ひといき》に飛掛《とびかゝ》るのが常《つね》だから、私《わたくし》は今《いま》喰殺《くひころ》されるのは覺悟《かくご》の前《まへ》だが、どうせ死《し》ぬなら徒《たゞ》は死《し》なぬぞ、斯《か》く睨合《にらみあ》つて居《を》る間《あひだ》に、先方《せんぱう》に卯《う》の毛《け》の虚《すき》でもあつたなら、機先《きせん》に此方《こなた》から飛掛《とびかゝ》つて、多少《たせう》の痛《いた》さは見《み》せて呉《く》れんと考《かんが》へたので、眼《まなこ》を放《はな》たず睥睨《へいげい》して居《を》る、猛狒《ゴリラ》も益々《ます/\》猛《たけ》く此方《こなた》を窺《うかゞ》つて居《を》る、此《この》九死一生《きうしいつしやう》の分《わか》れ目《め》、不意《ふい》に、實《じつ》に不意《ふい》に、何處《どこ》ともなく一發《いつぱつ》の銃聲《じうせい》。つゞいて又《また》一發《いつぱつ》[#ルビの「いつぱつ」は底本では「いつはつ」]、猛狒《ゴリラ》は思《おも》ひがけなき二發《にはつ》の彈丸《だんぐわん》に射《ゐ》られて、蹴鞠《けまり》のやうに跳上《をどりあが》つた。
吾等《われら》も喫驚《びつくり》して其方《そなた》を振向《ふりむ》くと、此時《このとき》、吾等《われら》の立《た》てる處《ところ》より、大約《およそ》二百ヤード許《ばかり》離《はな》れた森《もり》の中《なか》から、突然《とつぜん》現《あら》はれて來《き》た二個《ふたり》の人《ひと》がある。
『や、や、日本人《につぽんじん》! 日本人《につぽんじん》!。」と少年《せうねん》も私《わたくし》も驚愕《おどろき》と喜悦《よろこび》に絶叫《ぜつけう》したよ。
實《じつ》に夢《ゆめ》ではあるまいか。現《あら》はれ來《きた》つた二個《ふたり》の人《ひと》は紛《まぎら》ふ方《かた》なき日本人《につぽんじん》で、一人《ひとり》[#ルビの「ひとり」は底本では「ひいり」]は色《いろ》の黒々《くろ/″\》とした筋骨《きんこつ》の逞《たく》ましい水兵《すいへい》の姿《すがた》、腰《こし》に大刀《だいたう》を横《よこた》へたるが、キツと此方《こなた》を眺《なが》めた、他《た》の一人《いちにん》は、威風《ゐふう》凛々《りん/\》たる帝國海軍士官《ていこくかいぐんしくわん》の服裝《ふくさう》、二連銃《にれんじう》の銃身《じうしん》を握《にぎ》つて水兵《すいへい》を顧見《かへりみ》ると、水兵《すいへい》は勢《いきほひ》鋭《するど》く五六|歩《ぽ》此方《こなた》へ走《はし》り近《ちか》づく、此時《このとき》二發《にはつ》の彈丸《だんぐわん》を喰《くら》つた猛狒《ゴリラ》は吾等《われら》を打捨《うちす》てゝ、奔馬《ほんば》の如《ごと》く馳《は》せ向《むか》ひ、一聲《いつせい》叫《さけ》ぶよと見《み》る間《ま》に、電光《でんくわう》の如《ごと》く水兵《すいへい》の頭上《づじやう》目掛《めが》けて飛掛《とびかゝ》つた。水兵《すいへい》ヒラリと身《み》を躱《かは》すよと見《み》る間《ま》に、腰《こし》の大刀《だいたう》は※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、144−5]手《ぬくて》も見《み》せず、猛狒《ゴリラ》の肩先《かたさき》に斬込《きりこ》んだ。猛狒《ゴリラ》怒《いか》つて刀身《たうしん》を双手《もろて》に握《にぎ》ると、水兵《すいへい》は焦《いらだ》つて其《その》胸先《むなさき》を蹴上《けあ》げる、此《この》大奮鬪《だいふんとう》の最中《さいちう》沈着《ちんちやく》なる海軍士官《かいぐんしくわん》は靜《しづ》かに進《すゝ》み寄《よ》つて、二連銃《にれんじう》の筒先《つゝさき》は猛狒《ゴリラ》の心臟《しんぞう》を狙《ねら》ふよと見《み》えしが、忽《たちま》ち聽《きこ》ゆる一發《いつぱつ》の銃聲《じうせい》。七|尺《しやく》有餘《いうよ》の猛狒《ゴリラ》は苦鳴《くめい》をあげ、鮮血《せんけつ》を吐《は》いて地上《ちじやう》に斃《たを》れた。私《わたくし》と少年《せうねん》とは夢《ゆめ》に夢見《ゆめみ》る心地《こゝち》。韋駄天《いだてん》の如《ごと》く其《その》傍《かたはら》に走《はし》り寄《よ》つた時《とき》、水兵《すいへい》は猛獸《まうじう》に跨《またが》つて止《とゞ》めの一刀《いつたう》、海軍士官《かいぐんしくわん》は悠然《いうぜん》として此方《こなた》に向《むか》つた。私《わたくし》は餘《あま》りの嬉《うれ》しさに言《げん》もなく、其人《そのひと》の顏《かほ》を瞻《なが》めたが、忽《たちま》ち電氣《でんき》に打《う》たれたかの如《ごと》く愕《おどろ》き叫《さけ》んだよ。
『やあ、貴方《あなた》は櫻木海軍大佐《さくらぎかいぐんたいさ》※[#感嘆符疑問符、1−8−78]。』
大佐《たいさ》も愕然《がくぜん》として私《わたくし》の顏《かほ》を見詰《みつ》めたが
『や、貴下《あなた》は――。』と言《い》つた儘《まゝ》、暫時《しばし》言葉《ことば》もなかつたのである。
櫻木海軍大佐《さくらぎかいぐんたいさ》! 々々々。此人《このひと》の名《な》は讀者《どくしや》諸君《しよくん》の御記臆《ごきおく》に存《そん》して居《を》るか否《いな》か。私《わたくし》が子ープルス[#「子ープルス」に二重傍線]港《かう》を出港《しゆつかう》のみぎり、圖《はか》らずも注意《ちうゐ》を引《ひ》いた反古《はご》新聞《しんぶん》の不思議《ふしぎ》なる記事《きじ》中《ちゆう》の主人公《しゆじんこう》で、既《すで》に一年半《いちねんはん》以前《いぜん》に或《ある》秘密《ひみつ》を抱《いだ》いて、部下《ぶか》卅七|名《めい》の水兵等《すいへいら》と一夜《いちや》奇怪《きくわい》なる帆走船《ほまへせん》に乘《じやう》じて、本國《ほんごく》日本《につぽん》を立去《たちさ》つた人《ひと》、其人《そのひと》に今《いま》や斯《か》かる孤島《はなれじま》の上《うへ》にて會合《くわいごう》するとは、意外《いぐわい》も、意外《いぐわい》も、私《わたくし》は暫時《しばし》五里霧中《ごりむちう》に彷徨《はうくわう》したのである。
第十二回 海軍《かいぐん》の家《いへ》
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南方の無人島――快活な武村兵曹――おぼろな想像――前は絶海の波、後は椰子の林――何處ともなく立去つた
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櫻木海軍大佐《さくらぎかいぐんたいさ》は暫時《しばらく》して口《くち》を開《ひら》いた。
『實《じつ》に意外《ゐぐわい》です、君《きみ》が此樣《こん》な絶島《ぜつとう》へ――。』といひつゝ、染々《しみ/″\》と吾等《われら》兩人《りようにん》の姿《すがた》を打瞻《うちなが》め
『此處《こゝ》は印度洋《インドやう》もズツト南方《なんぽう》に偏《へん》した無人島《むじんとう》で、一番《いちばん》に近《ちか》いマダカツスル[#「マダカツスル」に二重傍線]群島《ぐんたう》へも一千哩《いつせんマイル》以上《いじやう》、亞細亞大陸《アジアたいりく》や、歐羅巴洲《エウロツパしう》までは、幾千幾百哩《いくせんいくひやくマイル》あるか分《わか》らぬ程《ほど》で、到底《とても》尋常《じんじやう》では人《ひと》の來《く》るべき島《しま》ではありませんが。』といと審《いぶ》かし氣《げ》なる顏《かほ》。
『イヤ、全《まつた》く意外《ゐぐわい》です。』と私《わたくし》は進寄《すゝみよ》つた。斯《かゝ》る塲合《ばあひ》だから、勿論《もちろん》委《くわ》しい事《こと》は語《かた》らぬが、船《ふね》の沈沒《ちんぼつ》から此《この》島《しま》へ漂着《へうちやく》までの大略《あらまし》を告《つ》げると、大佐《たいさ》も始《はじ》めて合點《がつてん》の色《いろ》、
『其樣《そん》な事《こと》だらうとは想《おも》ひました、實《じつ》に酷《ひど》い目《め》にお逢《あひ》になりましたな。』と、今《いま》しも射殺《ゐたを》したる猛狒《ゴリラ》の死骸《しがい》に眼《まなこ》を注《そゝ》いで
『實《じつ》は先刻《せんこく》急《きふ》に思《おも》ひ立《た》つて、此《この》兵曹《へいそう》と共《とも》に遊獵《いうれう》に出《で》たのが、天幸《てんこう》にも君等《きみら》をお助《たす》け申《まう》す事《こと》になつたのです。』と言《い》ひながら、大空《おほぞら》を仰《あほ》ぎ見《み》て。
『いろ/\委《くわ》しい事《こと》を承《うけたまは》りたいが、最早《もはや》暮《く》るゝにも近《ちか》く、此邊《このへん》は猛獸《まうじう》の巣窟《さうくつ》ともいふ可《べ》き處《ところ》ですから、一先《ひとま》づ我《わ》が住家《すみか》へ。』と銃《じう》の筒《つゝ》を擡《もた》げた。私《わたくし》は話《はなし》の序《つひで》に、日出雄少年《ひでをせうねん》の事《こと》をば一寸《ちよつと》語《かた》つたので、大佐《たいさ》は凛《りん》たる眼《まなこ》を少年《せうねん》の面《おもて》に轉《てん》じ
『おゝ、可愛《かあい》らしい兒《こ》ですな。』と親切《しんせつ》に其《その》頭《かしら》を撫《な》でつゝ、吾等《われら》の傍《かたわら》に勇《いさ》ましき面《おもて》して立《た》てる水兵《すいへい》を顧《かへり》み
『これ、武村兵曹《たけむらへいそう》、此《この》少年《せうねん》を撫恤《いたわ》つてあげい。』
言下《げんか》に武村《たけむら》と呼《よ》ばれたる兵曹《へいそう》は、つと進寄《すゝみよ》り威勢《ゐせい》よく少年《せうねん》を抱上《いだきあ》げて
『ほー、可愛《かあい》らしい少年《せうねん》だ、サア私《わたくし》の頭《あたま》へ乘《の》つた/\。』と肩車《かたぐるま》に乘《の》せて、ズン/\と前《さき》へ走《はし》り出《だ》[#ルビの「だ」は底本では「た」]した。
櫻木海軍大佐等《さくらぎかいぐんたいさら》の住《すま》へる家《いへ》までは、此處《こゝ》から一哩《いちマイル》程《ほど》ある相《さう》だ。此時《このとき》ふと[#「ふと」に傍点]心《こゝろ》に思《おも》つたのは、先刻《せんこく》から鐵《てつ》の響《ひゞき》の發《はつ》する
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