ど》は西南《せいなん》から東方《とうほう》に向《むか》ひ、マルヂヴエ[#「マルヂヴエ」に二重傍線]群島《ぐんとう》の邊《へん》から南方《なんほう》に向《むか》つて走《はし》るなる、一層《いつそう》流勢《ながれ》の速《はや》い潮流《てうりう》に吸込《すひこ》まれて居《を》ると覺《さと》つた時《とき》、思《おも》はず驚愕《おどろき》の聲《こゑ》を發《はつ》した事《こと》と、甞《かつ》て物《もの》の本《ほん》で讀《よ》んだ夥《おびたゞ》しき鯨《くぢら》の群《むれ》を遙《はるか》の海上《かいじやう》に眺《なが》めた事《こと》の他《ほか》は、何《なに》の變《かは》つた事《こと》もない。勿論《もちろん》、今《いま》の境涯《きやうがい》とて决《けつ》して平和《へいわ》な境涯《きやうがい》ではないが、すでに腹《はら》に充分《じゆうぶん》の力《ちから》があるので、※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、129−11]《すぐ》る日《ひ》よりは餘程《よほど》元氣《げんき》もよく、赫々《かく/\》たる熱光《ねつくわう》の下《した》、日出雄少年《ひでをせうねん》は私《わたくし》の顏《かほ》を見詰《みつ》めて『おや/\、叔父《おぢ》さんは何時《いつ》の間《ま》にか、黒奴《くろんぼ》になつてしまつてよ。』と自分《じぶん》の顏《かほ》は自分《じぶん》には見《み》えず、昨日《きのふ》の美少年《びせうねん》も、今《いま》は日《ひ》に燒《や》け、潮風《しほかぜ》に吹《ふ》かれて、恰《あだか》も炭團屋《たどんや》の長男《ちやうなん》のやうになつた事《こと》には氣《き》の付《つ》かぬ無邪氣《むじやき》さ、只更《ひたすら》私《わたくし》の顏《かほ》を指《ゆびさ》し笑《わら》つたなど、苦《くる》しい間《あひだ》にも隨分《ずいぶん》滑※[#「(禾+尤)/上/日」、130−5]《こつけい》な話《はなし》だ。其日《そのひ》も暮《く》れ、翌日《よくじつ》は來《きた》つたが矢張《やはり》水《みづ》や空《そら》なる大洋《たいやう》の面《おもて》には、一點《いつてん》の島影《しまかげ》もなく、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《きせん》の煙《けむり》も見《み》えぬのである。
然《しか》るに茲《こゝ》に一大《いちだい》事件《じけん》が起《おこ》つた。それは他《ほか》でもない、吾等《われら》が生命《せいめい》の綱《つな》と頼《たの》む沙魚《ふか》の肉《にく》がそろ/\腐敗《ふはい》し始《はじ》めた事《こと》である。最初《さいしよ》から多少《たせう》此《この》心配《しんぱい》の無《な》いでもなかつたが、兎《と》に角《かく》、世《よ》に珍《めづ》らしき巨大《きよだい》の魚《うを》の、左樣《さう》容易《ようい》に腐敗《ふはい》する事《こと》もあるまいと油斷《ゆだん》して居《を》つたが、其《その》五日目《いつかめ》の朝《あさ》、私《わたくし》はふとそれと氣付《きづ》いた。然《しか》し今《いま》の塲合《ばあひ》何《なに》も言《い》はずに辛抱《しんばう》して喰《く》つたが、印度洋《インドやう》の炎熱《えんねつ》が、始終《しじう》其上《そのうへ》を燒《や》く樣《やう》に照《てら》して居《を》るのだから堪《たま》らない、其《その》晝食《ちうしよく》の時《とき》、一口《ひとくち》口《くち》にした無邪氣《むじやき》の少年《せうねん》は、忽《たちま》ち其《その》肉《にく》を海上《かいじやう》に吐《は》き出《だ》して、
『おや/\、どうしたんでせう、此《この》魚《さかな》は變《へん》な味《あぢ》になつてよ。』と叫《さけ》んだのは、實《じつ》に心細《こゝろぼそ》い次第《しだい》であつた。
夕方《ゆふがた》になると、最早《もはや》畢世《ひつせい》の勇氣《ゆうき》を振《ふる》つても、とても口《くち》へ入《い》れる心《こゝろ》は出《で》ぬ。さりとて此《この》大事《だいじ》な生命《いのち》の綱《つな》を、むさ/″\海中《かいちう》に投棄《なげす》てるには忍《しの》びず、なるべく艇《てい》の隅《すみ》の方《ほう》へ押遣《おしや》つて、またもや四五|日《にち》前《まへ》のあはれな有樣《ありさま》を繰返《くりかへ》して一夜《いちや》を明《あか》したが、翌朝《よくあさ》になると、ほと/\堪《た》えられぬ臭氣《しゆうき》、氣《き》も、魂《たましひ》も、遠《とう》くなる程《ほど》で、最早《もはや》此《この》腐《くさ》つた魚《さかな》とは一刻《いつこく》も同居《どうきよ》し難《がた》く、無限《むげん》の恨《うらみ》を飮《の》んで、少年《せうねん》と二人《ふたり》で、沙魚《ふか》の死骸《しがい》をば海底《かいてい》深《ふか》く葬《ほうむ》つてしまつた。
サア、これからは又々《また/\》斷食《だんじき》、此《この》日《ひ》も空《むな》しく暮《く》れて夜《よ》に入《い》つたが、考《かんが》へると此後《このゝち》吾等《われら》は如何《いか》になる事《こと》やら、絶望《ぜつぼう》と躍氣《やつき》とに終夜《しゆうや》眠《ねむ》らず、翌朝《よくてう》になつて、曉《あかつき》の風《かぜ》はそよ/\と吹《ふ》いて、東《ひがし》の空《そら》は白《しら》んで來《き》たが、最早《もはや》起上《おきあが》る勇氣《ゆうき》もない、『えい、無益《だめ》だ/\、糧食《かて》は盡《つ》き、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船《ふね》は見《み》えず、今更《いまさら》たよる島《しま》も無《な》い。』と思《おも》はず叫《さけ》んだが、不圖《ふと》傍《かたわら》に日出雄少年《ひでをせうねん》が安《やす》らかに眠《ねむ》つて居《を》るのに心付《こゝろつ》き、や、詰《つま》らぬ事《こと》をと、急《いそ》ぎ其方《そなた》を見《み》ると少年《せうねん》は、今《いま》の聲《こゑ》に驚《おどろ》き目醒《めざ》め、むつと起《お》きて、半身《はんしん》を端艇《たんてい》の外《そと》へ出《だ》したが、忽《たちま》ち驚《おどろ》き悦《よろこび》の聲《こゑ》で
『島《しま》が! 島《しま》が! 叔父《おぢ》さん、島《しま》が! 島《しま》が!。』
『島《しま》がツ。』と私《わたくし》も蹴鞠《けまり》のやうに跳起《はねお》きて見《み》ると、此時《このとき》天《てん》全《まつた》く明《あ》けて、朝霧《あさぎり》霽《は》れたる海《うみ》の面《おも》、吾《わ》が端艇《たんてい》を去《さ》る事《こと》三海里《さんかいり》ばかりの、南方《なんぽう》に當《あた》つて、椰子《やし》、橄欖《かんらん》の葉《は》は青※[#二の字点、1−2−22]《あほ/\》と茂《しげ》つて、磯《いそ》打《う》つ波《なみ》は玉《たま》と散《ち》る邊《へん》、一個《いつこ》の島《しま》が横《よこたは》つて居《を》つた。

    第十一回 無人島《むじんたう》の響《ひゞき》
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人の住む島か、魔の棲む島か――あら、あの音は――奇麗な泉――ゴリラの襲來――水兵ヒラリと身を躱した――海軍士官の顏
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 此《この》島《しま》は、遠《とほ》くから望《のぞ》むと、恰《あだか》も犢牛《こうし》の横《よこたは》つて居《を》る樣《やう》な形《かたち》で、其《その》面積《めんせき》も餘程《よほど》廣《ひろ》い樣《やう》だ。弦月丸《げんげつまる》の沈沒《ちんぼつ》以來《いらい》十|數日間《すうにちかん》は、青《あを》い空《そら》と、青《あを》い波《なみ》の外《ほか》は何《なに》一つも眺《なが》めた事《こと》のない吾等《われら》が、不意《ふい》に此《この》島《しま》を見出《みいだ》した時《とき》の嬉《うれ》しさ、翅《つばさ》あらば飛《と》んでも行《ゆ》きたき心地《こゝち》、けれど悲《かな》しや、心付《こゝろつ》くと吾《わが》端艇《たんてい》には帆《ほ》もなく、櫂《かい》も無《な》い。近《ちか》い樣《やう》でも海上《かいじやう》の三|里《り》は容易《ようゐ》でない、無限《むげん》の大海原《おほうなばら》に漂《たゞよ》つて居《を》つた間《あひだ》こそ、島《しま》さへ見出《みいだ》せば、直《たゞ》ちに助《たす》かる樣《やう》に考《かんが》へて居《を》つたが、仲々《なか/\》左樣《さう》は行《ゆ》かぬ。まご/\して居《ゐ》れば再《ふたゝ》び何處《どこ》へ押流《おしなが》されてしまうかも分《わか》らぬ。今《いま》は躊躇《ちうちよ》しては居《を》られぬ塲合《ばあひ》、私《わたくし》は突如《いきなり》眞裸《まつぱだか》になつて海中《かいちう》へ跳込《をどりこ》んだ[#「跳込《をどりこ》んだ」は底本では「跳込《をどりこ》んた」]、隨分《ずいぶん》覺束《おぼつか》ない事《こと》だが、泳《およ》ぎながらに、端艇《たんてい》をだん/″\と島《しま》の方《ほう》へ押《お》して行《ゆ》かんとの考《かんがへ》、艇中《ていちう》からは日出雄少年《ひでをせうねん》、楓《かへで》のやうな手《て》で頻《しき》りに波《なみ》を掻分《かきわ》けて居《を》る、此樣《こんな》事《こと》で、舟《ふね》は動《うご》くか動《うご》かぬか、其《その》遲緩《まぬる》さ。けれど吾等《われら》の勞力《らうりよく》は遂《つひ》に無益《むえき》とならで、漸《やうやく》の事《こと》で島《しま》に着《つ》いたのは、かれこれ小半日《こはんにち》も※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、134−5]《すぎ》てから後《あと》の事《こと》、僅《わづ》か三里《さんり》の波《なみ》の上《うへ》を、六時間《ろくじかん》以上《いじやう》とは甚《はなは》だ遲《おそ》い速力《そくりよく》ではあるが、それでも私《わたくし》は死《し》ぬ程《ほど》辛苦《つら》かつた。
※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、134−7]《すぐ》る十|有餘日《いうよにち》の間《あひだ》、よく吾等《われら》の運命《うんめい》を守護《しゆご》して呉《く》れた端艇《たんてい》をば、波打際《なみうちぎわ》にとゞめて此《この》島《しま》に上陸《じやうりく》して見《み》ると、今《いま》は五|月《ぐわつ》の中旬《なかば》すぎ、翠《みどり》滴《したゝ》らんばかりなる樹木《じもく》は島《しま》の全面《ぜんめん》を蔽《おほ》ふて、遙《はる》か向《むか》ふは、野《の》やら、山《やま》やら、眼界《がんかい》も屆《とゞ》かぬ有樣《ありさま》。吾等《われら》の上陸《じやうりく》した邊《へん》は自然《しぜん》の儘《まゝ》なる芝原《しばゝら》青々《あをあを》として、其處此處《そここゝ》に、名《な》も知《し》れぬ紅白《こうはく》さま/″\の花《はな》が咲亂《さきみだ》れて、南《みなみ》の風《かぜ》がそよ/\と吹《ふ》くたびに、陸《りく》から海《うみ》までえならぬ香氣《にほひ》を吹《ふ》き送《おく》るなど、たゞさへ神仙《しんせん》遊樂《ゆうらく》の境《きやう》、特《こと》に私共《わたくしども》は、極端《きよくたん》なる苦境《くきやう》から、此《この》極端《きよくたん》なる樂境《らくきやう》に上陸《じやうりく》した事《こと》とて、初《はじ》めは自《みづか》ら夢《ゆめ》でないかと疑《うたが》はるゝばかり。さあ斯《か》うなると今迄《いまゝで》張詰《はりつ》めて居《を》つた氣《き》も幾分《いくぶん》か緩《ゆる》んで來《き》て、疲勞《つかれ》も飢《うえ》も感《かん》じて來《く》る。斯程《かほど》の島《しま》だから、何《なに》か食物《しよくもつ》の無《な》い事《こと》もあるまいと四方《よも》を見渡《みわた》すと、果《はた》して二三|町《ちやう》距《へだゝ》つた小高《こだか》い丘《をか》の中腹《なかば》に、一帶《いつたい》の椰子《やし》、バナヽの林《はやし》があつて、甘美《うるは》しき果實《くわじつ》は枝《えだ》も垂折《しを》れんばかりに成熟《せいじゆく》して居《を》る。二人《ふたり》は宙《ちう》飛《と》ぶ如《ごと》く驅付《かけつ》けて、喰《く》ふた喰《く》はぬは言《い》ふ丈《だ》け無益《むえき》、頓《やが》て腹《
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