ない。六千四百|噸《とん》の巨船《きよせん》もすでに半《なかば》は傾《かたむ》き、二本《にほん》の煙筒《えんとう》から眞黒《まつくろ》に吐出《はきだ》す烟《けぶり》は、恰《あたか》も斷末魔《だんまつま》[#ルビの「だんまつま」は底本では「たんまつま」]の苦悶《くもん》を訴《うつた》へて居《を》るかのやうである。
『もう無益《だめ》だ/\、とても沈沒《ちんぼつ》は免《まぬ》かれない。』と船員《せんゐん》一同《いちどう》はすでに本船《ほんせん》の運命《うんめい》を見捨《みす》てたのである。
私《わたくし》は此時《このとき》まで殆《ほと》んど喪心《そうしん》の有樣《ありさま》で、甲板《かんぱん》の一端《いつたん》に屹立《つゝた》つた儘《まゝ》、此《この》慘憺《さんたん》たる光景《ありさま》に眼《まなこ》を注《そゝ》いで居《を》つたが、ハツと心付《こゝろつ》いたよ。
『春枝夫人《はるえふじん》、日出雄少年《ひでをせうねん》は如何《どう》して居《を》るだらう。』と
私《わたくし》は宙《ちう》を飛《と》んで船室《せんしつ》の方《かた》に向《むか》つた。昇降口《しようかうぐち》のほとり、出逢《であ》ひがしらに、下方《した》から昇《のぼ》つて來《き》たのは、夫人《ふじん》と少年《せうねん》とであつた。不時《ふじ》の大騷動《だいさうどう》に、愕《おどろ》き目醒《めさ》めたる春枝夫人《はるえふじん》は、かゝる焦眉《せうび》の急《きふ》にも其《その》省愼《たしなみ》を忘《わす》れず、寢衣《しんい》を常服《じやうふく》に着更《きか》へて居《を》つた爲《た》めに、今《いま》漸《やうや》く此處《こゝ》まで來《き》たのである。見《み》るより私《わたくし》は
『夫人《おくさん》、大事變《だいじへん》が/\。』
『何《なに》か起《おこ》りましたか、暗礁《あんせう》へでも?』と夫人《ふじん》の聲《こゑ》は沈《しづ》んで居《を》つた。
『暗礁《あんせう》どころか、ま、早《はや》く/\。』と私《わたくし》は引立《ひきた》てるやうにして夫人《ふじん》を伴《ともな》ひ、喫驚《びつくり》して眼《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて居《を》る少年《せうねん》をば、ヒシと腕《うで》に抱《かゝ》へて甲板《かんぱん》を走《はし》つた、餘《あま》りに人《ひと》の立騷《たちさわ》いで居《を》る邊《へん》は、却《かへつ》て危險《きけん》の多《おほ》いので、吾等《われら》三人《みたり》は全《まつた》く離《はな》れて、ずつと船首《せんしゆ》の海圖室《かいづしつ》の側《ほとり》に身《み》を寄《よ》せた。此《この》塲合《ばあひ》に第《だい》一に私《わたくし》の胸《むね》をうつたのは、此《この》航海《かうかい》のはじめネープルス[#「ネープルス」に二重傍線]港《かう》を出《い》づる時《とき》、濱島《はまじま》に堅《かた》く約《やく》して、夫人《ふじん》と其《その》愛兒《あいじ》との身《み》の上《うへ》は、私《わたくし》の生命《いのち》に懸《か》けてもと堅《かた》く請合《うけあ》つた事《こと》、今《いま》、此《この》危急《ききふ》の塲合《ばあひ》に臨《のぞ》んで、私《わたくし》の身命《しんめい》は兎《と》もあれ、此《この》二人《ふたり》丈《だ》[#ルビの「だ」は底本では「た」]けは如何《どう》しても救《すく》はねばならぬのだ。
船《ふね》は秒一秒《べういちべう》に沈《しづ》んで行《ゆ》く、甲板《かんぱん》の叫喚《けうくわん》はます/\激《はげ》しくなつた。終《つひ》に「端艇《たんてい》下《おろ》せい。」の號令《がうれい》は響《ひゞ》いて、第《だい》一の端艇《たんてい》は波上《はじやう》に降下《くだ》つた。此時《このとき》私《わたくし》は春枝夫人《はるえふじん》を見返《みかへ》つたのである。
『いざ、夫人《おくさん》、避難《ひなん》の用意《ようゐ》を。』と。すべて海上《かいじやう》の規則《きそく》として、斯《かゝ》る塲合《ばあひ》に第《だい》一に下《くだ》されたる端艇《たんてい》は一等船客《いつとうせんきやく》のため、第《だい》二が二等船客《にとうせんきやく》、第《だい》三が三等船客《さんとうせんきやく》、總《すべ》ての船客《せんきやく》の免《のが》れ去《さ》つた後《あと》に、猶殘《なほのこ》る端艇《たんてい》があれば、其時《そのとき》はじめて船員等《せんゐんら》の避難《ひなん》の用《よう》に供《けう》せらるゝのである。で私《わたくし》は今《いま》第《だい》一|端艇《たんてい》の下《くだ》ると共《とも》に、吾等《われら》一等船客《いつとうせんきやく》たるの權利《けんり》をもつて、春枝夫人《はるえふじん》と日出雄少年《ひでをせうねん》とを誘《いざな》つたのである。勿論《もちろん》私《わたくし》は不束《ふつゝか》ながらも一個《いつこ》の日本男子《につぽんだんし》であれば、其《その》國《くに》の名《な》に對《たい》しても、斯《かゝ》る[#「斯《かゝ》る」は底本では「斯《かゝ》か」]塲合《ばあひ》に第《だい》一に逃出《にげだ》す事《こと》は出來《でき》ぬのである。然《しか》し、春枝夫人《はるえふじん》と日出雄少年《ひでをせうねん》とは私《わたくし》が[#「私《わたくし》が」は底本では「私《わたくし》か」]堅《かた》く友《とも》に保證《ほしやう》して居《お》る人《ひと》、且《かつ》は纎弱《かよわ》き女性《によせう》と、無邪氣《むじやき》なる少年《せうねん》の身《み》であれば、先《ま》づ此《この》二人《ふたり》をば避難《ひなん》せしめんと頻《しきり》に心《こゝろ》を焦《いらだ》てたのである。
然《しか》るに私《わたくし》の苦心《くしん》は全《まつた》く無益《むえき》であつた。第一端艇《だいいちたんてい》の波上《はじやう》[#ルビの「はじやう」は底本では「はしやう」]に浮《うか》ぶや否《い》なや、忽《たちま》ち數百《すうひやく》の人《ひと》は、雪崩《なだれ》の如《ごと》く其處《そこ》へ崩《くづ》れかゝつた。我先《われさき》に其《その》端艇《たんてい》に乘移《のりうつ》らんと、人波《ひとなみ》うつて※[#「口+曹」、第3水準1−15−16]閙《ひしめ》く樣《さま》は、黒雲《くろくも》の風《かぜ》に吹《ふ》かれて卷返《まきかへ》すやうである。
『夫人《おくさん》、とてもいけません。』と二三|歩《ぽ》進《すゝ》んだ私《わたくし》は振返《ふりかへ》つた。とても/\、あの狂氣《きちがひ》のやうに立騷《たちさわ》いで居《を》る多人數《たにんずう》の間《あひだ》を分《わ》けて、此《この》柔弱《かよわ》き夫人《ふじん》と少年《せうねん》とを安全《あんぜん》に端艇《たんてい》に送込《おくりこ》む事《こと》が出來《でき》やう? あゝ人間《にんげん》はいざと云《い》ふ塲合《ばあひ》には、恥辱《はぢ》も名譽《めいよ》もなく、斯《か》く迄《まで》生命《いのち》の惜《を》しい者《もの》かと、嘆息《たんそく》と共《とも》に眺《なが》めて居《を》ると、更《さら》に奇怪《きくわい》なるは、其《その》端艇《たんてい》に身《み》を投《とう》じたる一群《いちぐん》の人《ひと》、それは一等船客《いつとうせんきやく》でもなく、二等船客《にとうせんきやく》でもなく、實《じつ》に此《この》船《ふね》の最後《さいご》まで踏止《ふみとゞま》る可《べ》き筈《はづ》の水夫《すいふ》、火夫《くわふ》、舵手《かぢとり》、機關手《きくわんしゆ》、其他《そのほか》一團《いちだん》の賤劣《せんれつ》なる下等船客《かとうせんきやく》で、自己《おのれ》の腕力《わんりよく》に任《まか》せて、他《た》を突除《つきの》け蹴倒《けたを》して、我先《われさき》にと艇中《ていちう》に乘移《のりうつ》つたのである。
『あゝ、何《なん》たる醜態《しうたい》ぞ。」と私《わたくし》はあまりの事《こと》に撫然《ぶぜん》とした。春枝夫人《はるえふじん》は私《わたくし》の後方《うしろ》に、愛兒《あいじ》をしかと抱《いだ》きたる儘《まゝ》、默然《もくねん》として言《ことば》もない、けれど流石《さすが》に豪壯《がうさう》なる濱島武文《はまじまたけぶみ》の妻《つま》、帝國軍人松島海軍大佐《ていこくぐんじんまつしまかいぐんたいさ》の妹君《いもとぎみ》程《ほど》あつて、些《ちつと》も取亂《とりみだ》したる姿《すがた》のなきは、既《すで》に其《その》運命《うんめい》をば天《てん》に任《まか》せて居《を》るのであらう。かゝる殊勝《けなげ》なる振舞《ふるまひ》を見《み》ては、私《わたくし》は猶《なほ》默《だま》つては居《を》られぬ。
『えゝ、無責任《むせきにん》なる船員《せんいん》! 卑劣《ひれつ》なる外人《くわいじん》! 海上《かいじやう》の規則《きそく》は何《なん》の爲《ため》ぞ。』と悲憤《ひふん》の腕《うで》を扼《やく》すと、夫人《ふじん》の淋《さび》しき顏《かほ》は私《わたくし》に向《むか》つた、沈《しづ》んだ聲《こゑ》で
『いえ、誰人《どなた》も命《いのち》の助《たす》かりたいのは同《おな》じ事《こと》でせう。』と言《い》つて、瞳《ひとみ》を轉《てん》じ
『でも、あの樣《やう》に澤山《たくさん》乘《の》つては端艇《たんてい》も沈《しづ》みませうに。』といふ、我身《わがみ》の危急《あやうき》をも忘《わす》れて、却《かへ》つて仇《あだ》し人《ひと》の身《み》の上《うへ》を氣遣《きづか》ふ心《こゝろ》の優《やさ》しさ、私《わたくし》は聲《こゑ》を勵《はげ》まして
『夫人《おくさん》、其樣《そん》な事處《ことどころ》でありません、貴女《あなた》と少年《せうねん》とは如何《どう》しても助《たすか》らねばなりません、私《わたくし》が濟《す》まない/\。』と叫《さけ》んで見渡《みわた》すと此時《このとき》第二《だいに》の端艇《たんてい》も下《お》りた、第三《だいさん》の端艇《たんてい》も下《お》りた、けれど其《その》附近《ふきん》は以前《いぜん》にも増《ま》す混雜《こんざつ》で、私《わたくし》は[#「私《わたくし》は」は底本では「私《わたくし》ば」]たゞ地團太《ぢだんだ》を踏《ふ》むばかり。ふと眼《まなこ》に入《い》つたのは、今《いま》、此《この》船《ふね》の責任《せきにん》を双肩《さうけん》に擔《にな》へる船長《せんちやう》が、卑劣《ひれつ》にも此時《このとき》、舷燈《げんとう》の光《ひかり》朦朧《もうろう》たるほとりより、天《てん》に叫《さけ》び、地《ち》に泣《な》ける、幾百《いくひやく》の乘組人《のりくみにん》をば此處《ここ》に見捨《みす》てゝ、第三《だいさん》の端艇《たんてい》に乘移《のりうつ》らんとする處《ところ》。
『ひ、ひ、卑怯者《ひけふもの》!。』と私《わたくし》は躍起《やつき》になつた、此處《こゝ》には春枝夫人《はるえふじん》の如《ごと》き殊勝《けなげ》なる女性《によせう》もあるに、彼《かれ》船長《せんちやう》の醜態《しうたい》は何事《なにごと》ぞと思《おも》ふと、もう默《だま》つては居《を》られぬ、元《もと》より無益《むえき》の業《わざ》ではあるが、せめての腹愈《はらいや》しには、吾《わが》鐵拳《てつけん》をもつて彼《かれ》の頭《かしら》に引導《いんどう》渡《わた》して呉《く》れんと、驅出《かけだ》す袂《たもと》を夫人《ふじん》は靜《しづか》に留《とゞ》めた。
『もう何事《なにごと》も爲《な》さりますな。妾《わたくし》も、日出雄《ひでを》も、此儘《このまゝ》海《うみ》の藻屑《もくづ》と消《き》えても、决《けつ》して未練《みれん》に助《たす》からうとは思《おも》ひませぬ。』と白※[#「薔」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、110−1]薇《はくさうび》のたとへば雨《あめ》に惱《なや》めるが如《ごと》く、しみ/″\と愛兒《あいじ》の顏《かほ》を眺《なが》めつゝ
『けれど、天《てん》の惠《めぐみ》があるならば、波《なみ》の底《そこ》に沈《しづ》んでも或《ある
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