は私《わたくし》の持病《やまひ》、疳癪玉《かんしやくだま》が一時《いちじ》に破裂《はれつ》したよ。
『無《な》い、無《な》い、無《な》いとは何《なん》です、私《わたくし》は今《いま》現《げん》に目撃《もくげき》して來《き》たのです。』
『はゝゝゝゝ。何《なに》を目撃《もくげき》しましたか。はゝゝゝゝ。』と彼《かれ》は空惚《そらとぼ》けて大聲《おほごえ》に笑《わら》つた。私《わたくし》は實《じつ》に腹《はら》の中《なか》から※[#「睹のつくり/火」、第3水準1−87−52]返《にへかへ》つたよ。序《ついで》だから言《い》つて置《お》くが、私《わたくし》は初《はじ》め此《この》船《ふね》に乘組《のりく》んだ時《とき》から一見《いつけん》して此《この》船長《せんちやう》はどうも正直《しようじき》な人物《じんぶつ》では無《な》いと思《おも》つて居《を》つたが果《はた》して然《しか》り、彼《かれ》は今《いま》、多少《たせう》の勞《らう》を厭《いと》ふて他船《たせん》の危難《きなん》をば見殺《みころ》しにする積《つもり》だなと心付《こゝろつ》いたから、私《わたくし》は激昂《げきこう》のあまり
『何《なに》を見《み》たもありません、本船《ほんせん》左舷《さげん》後方《こうほう》の海上《かいじやう》に當《あた》つて星火榴彈《せいくわりうだん》に一次《いちじ》一發《いつぱつ》の火箭《くわせん》、それが難破船《なんぱせん》の信號《しんがう》である位《くらゐ》を知《し》りませんか。』
『其樣《そんな》事《こと》は承《うけたまは》る必要《ひつえう》もありません。』と船長《せんちやう》は鼻《はな》で笑《わら》ひつゝ
『それは大方《おほかた》貴下《あなた》の眼《め》の誤《あやま》りでせうよ。うふゝゝゝ。』
『眼《め》の誤《あやま》り※[#疑問符感嘆符、1−8−77] 之《これ》は怪《け》しからん、私《わたくし》にはちやんと二個《ふたつ》の眼《め》がありますぞ。』
『其《その》眼《め》が怪《あや》しい、海《うみ》の上《うへ》ではよく眩惑《ごまか》されます、貴下《あなた》は屹度《きつと》流星《りうせい》の飛《と》ぶのでも見《み》たのでせう。』とビール樽《だる》のやうな腹《はら》を突出《つきだ》して
『いや、よしんば其《それ》が眞個《ほんたう》の難破信號《なんぱしんがう》であつたにしろ、此樣《こんな》平穩《おだやか》な海上《かいじやう》で難破《なんぱ》するやうな船《ふね》は全《まつた》く我等《われ/\》海員《かいゐん》の仲間以外《なかまはづれ》です、何《なに》も面倒《めんだう》な目《め》を見《み》て救助《きうじよ》に赴《おもむ》く義務《ぎむ》は無《な》いのです。』と言《い》つて空嘯《そらぶ》き笑《わら》つた
最早《もはや》問答《もんだう》も無益《むえき》と思《おも》つたから、私《わたくし》は突然《ゐきなり》船長《せんちやう》を船室《ケビン》の外《そと》へ引出《ひきだ》した
『あれが見《み》えませんか、あれが、あの悲慘《ひさん》なる信號《しんがう》の光《ひかり》を見《み》て何《なに》とも感《かん》じませんか。』とばかり、遙《はる》かに指《ゆびさ》す左舷船尾《さげんせんび》の海上《かいじやう》。私《わたくし》は『あツ。』と叫《さけ》んだまゝ暫時《しばらく》開《あ》いた[#「開《あ》いた」は底本では「開《あ》たい」]口《くち》も塞《ふさ》がらなかつたよ。審《いぶ》かしや。今《いま》から二分《にふん》三分《さんぷん》前《まへ》までは確《たしか》に閃々《せん/\》と空中《くうちう》に飛《と》んで居《を》つた難破信號《なんぱしんがう》の火光《ひかり》は何時《いつ》の間《ま》にか消《き》え失《う》せて、其處《そこ》には海面《かいめん》より數《すう》十|尺《しやく》高《たか》く白色球燈《はくしよくきうとう》輝《かゞや》き、船《ふね》の右舷《うげん》左舷《さげん》と覺《お》ぼしき處《ところ》に緑燈《りよくとう》、紅燈《こうとう》の光《ひかり》がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と見《み》ゆるのみである。前檣《ぜんしやう》に白燈《はくとう》、右舷《うげん》に緑燈《りよくとう》、左舷《さげん》に紅燈《こうとう》は言《い》ふ迄《まで》もない、安全航行《あんぜんかうかう》の信號《しんがう》※[#感嘆符三つ、81−11]
『はゝあ、或程《なるほど》、星火榴彈《せいくわりうだん》に一次《いちじ》一發《いつぱつ》の火箭《くわせん》、救助《きゆうじよ》を求《もと》むる難破船《なんぱせん》の信號《しんがう》がよく見《み》えます、貴下《あなた》の眼は仲々《なか/\》結構《けつこう》な眼《め》です。』と意地惡《ゐぢわる》き船長《せんちやう》はぢろり[#「ぢろり」に傍点]ッと私《わたくし》の顏《かほ》を睨《にら》んだか、私《わたくし》は一言《いちごん》も無《な》いのである。然《しか》し實《じつ》に奇怪《きくわい》な事《こと》ではないか、今《いま》安全信號燈《あんぜんしんがうとう》の輝《かゞや》いて居《を》る邊《へん》の海上《かいじやう》には、確實《たしか》に悲慘《ひさん》なる難破船《なんぱせん》の信號《しんがう》が見《み》えて居《を》つたのに。さては船長《せんちやう》の言《い》ふがごとく私《わたくし》の眼《め》の誤《あやま》りであつたらうか。否《いや》、否《いや》、如何《どう》考《かんが》へても私《わたくし》は白《しろ》、緑《みどり》、紅《あか》の燈光《とうくわう》を星火榴彈《せいくわりうだん》や火箭《くわぜん》と間違《まちが》へる程《ほど》惡《わる》い眼《まなこ》は持《も》つて居《を》らぬ筈《はづ》。して見《み》ると先刻《せんこく》の難破船信號《なんぱせんしんがう》は、何時《いつ》の間《ま》にか安全航行《あんぜんかうかう》の信號《しんがう》に變《かは》つたに相違《さうゐ》ない。さて/\奇妙《きめう》な事《こと》だと、私《わたくし》は暫時《しばらく》五里霧中《ごりむちう》に彷徨《さまよ》ふた。
船長《せんちやう》は一時《いちじ》は毒々《どく/\》しく私《わたくし》の顏《かほ》を眺《なが》めて嘲笑《あざわら》つて居《を》つたが此時《このとき》稍《や》や眞面目《まじめ》になつて其《その》光《ひかり》の方《かた》を眺《なが》めつゝ
『然《しか》し妙《めう》だぞ、今月《こんげつ》の航海表《かうかいへう》によると、今頃《いまごろ》此《この》航路《かうろ》を本船《ほんせん》の後《あと》を追《お》ふて斯《か》く進航《しんかう》して來《く》る船《ふね》は無《な》い筈《はづ》だが。』と小首《こくび》を傾《かたむ》けたが忽《たちま》ちカラ/\と笑《わら》つて
『あゝ分《わか》つた/\、畜生《ちくしやう》巧《うま》くやつてるな、此前《このまへ》あの邊《へん》で沈沒《ちんぼつ》したトルコ[#「トルコ」に二重傍線]丸《まる》の船幽靈《ふないうれい》めが、まだ浮《うか》び切《き》れないで難破船《なんぱせん》の眞似《まね》なんかして此《この》船《ふね》を暗礁《あんせう》へでも僞引寄《おびきよ》せやうとかゝつて居《い》るんだな、どつこい、其手《そのて》は喰《く》はんぞ。』と呟《つぶや》きながら私《わたくし》に向《むか》ひ
『だが[#「だが」は底本では「だか」]先刻《せんこく》は確實《たしか》に救助《きゆうじよ》を求《もと》むる難破船《なんぱせん》の信號《しんがう》が見《み》えましたか。』と眉《まゆ》に唾《つばき》した。可笑《をか》しい樣《やう》だが船乘人《ふなのり》にはかゝる迷信《めいしん》を抱《いだ》いて居《を》る者《もの》が澤山《たくさん》ある、私《わたくし》は相手《あいて》にせず簡單《かんたん》に
『左樣《さやう》、確《たしか》に救助《きうじよ》を求《もと》むる難破《なんぱ》の信號《しんがう》!。」と答《こた》へて、彼《かれ》が『うむ、いよ/\違《ちがひ》ない、船幽靈《ふなゆうれい》メー。』と單獨《ひとり》でぐと/\何事《なにごと》をか言《い》つて居《を》るのを聽《き》き流《なが》しながら、猶《なほ》よく其《その》海上《かいじやう》を見渡《みわた》すと、今《いま》眼《め》に見《み》ゆる三個《さんこ》の燈光《とうくわう》は、决《けつ》して愚《おろか》なる船長《せんちやう》の言《い》ふが如《ごと》き、怨靈《おんれう》とか海《うみ》の怪物《ばけもの》とかいふ樣《やう》な世《よ》に在《あ》り得可《うべ》からざる者《もの》の光《ひかり》ではなく、緑《りよく》、紅《こう》の兩燈《りようとう》は確《たしか》に船《ふね》の舷燈《げんとう》で、海面《かいめん》より高《たか》き白色《はくしよく》の光《ひかり》は海上法《かいじやうほふ》に從《したが》ひ甲板《かんぱん》より二十|尺《しやく》以上《いじやう》高《たか》く掲《かゝ》げられたる檣燈《しやうとう》にて、今《いま》や、何等《なにら》かの船《ふね》は、我《わ》が弦月丸《げんげつまる》の後《あと》を追《お》ふて進航《しんかう》しつゝ來《きた》るのであつた。

    第七回 印度洋《インドやう》の海賊《かいぞく》
[#ここから5字下げ]
水雷驅逐艦か巡洋艦か――昔の海賊と今の海賊――海底潜水器――探海電燈《サアチライト》――白馬の如き立浪――海底淺き處――大衝突
[#ここで字下げ終わり]
 私《わたくし》が一心《いつしん》に見詰《みつ》めて居《を》る間《あひだ》に、右舷《うげん》に緑燈《りよくとう》、左舷《さげん》に紅燈《こうとう》、甲板《かんぱん》より二十|尺《しやく》以上《いじやう》高《たか》き前檣《ぜんしやう》に閃々《せん/\》たる白色燈《はくしよくとう》を掲《かゝ》げたる一隻《いつさう》の船《ふね》は、印度洋《インドやう》の闇黒《やみ》を縫《ぬ》ふてだん/″\と接近《せつきん》して來《き》た。今《いま》、我《わ》が弦月丸《げんげつまる》は一|時間《じかん》に十二三|海里《ノツト》の速力《そくりよく》をもつて進航《しんかう》して居《を》るのに、其《その》後《あと》を追《お》ふて斯《か》くも迅速《じんそく》に接近《せつきん》して來《く》るとは、實《じつ》に非常《ひじやう》の速力《そくりよく》でなければならぬ。今《いま》の世《よ》に、かくも驚《おどろ》く可《べ》き速力《そくりよく》をもつて居《を》る船《ふね》は、水雷驅逐艦《すゐらいくちくかん》か、水雷巡洋艦《すゐらいじゆんやうかん》の他《ほか》はあるまい、あの燈光《とうくわう》の主體《しゆたい》は果《はた》して軍艦《ぐんかん》の種類《しゆるい》であらうか。軍艦《ぐんかん》の種類《しゆるい》ならば何《なに》も配慮《しんぱい》するには及《およ》ばないが――若《も》しや――若《も》しや――と私《わたくし》はふと[#「ふと」に傍点]或《ある》事《こと》を想起《おもひおこ》した時《とき》、思《おも》はずも戰慄《せんりつ》したよ。
未《いま》だ其《そ》の船《ふね》の船體《せんたい》も認《みと》めぬ内《うち》から、斯《かゝ》る心配《しんぱい》をするのは全《まつた》く馬鹿氣《ばかげ》て居《を》るかも知《し》れぬが、先刻《せんこく》からの奇怪《きくわい》の振舞《ふるまひ》を見《み》ては、どうも心《こゝろ》が安《やす》くないのである、第一《だいゝち》に遙《はる》か/\の闇黒《あんこく》なる海上《かいじやう》に於《おい》て、星火榴彈《せいくわりうだん》を揚《あ》げ、火箭《くわぜん》を飛《と》ばして難破船《なんぱせん》の風體《ふうてい》を摸擬《よそを》つたなど、船長《せんちやう》は單《たん》に船幽靈《ふないうれい》の仕業《しわざ》で御坐《ござ》るなどゝ、無※[#「(禾+尤)/上/日」、85−11]《ばか》な事《こと》を言《い》つて居《を》るが其實《そのじつ》、かの不思議《ふしぎ》なる難破船《なんぱせん》の信號《しんがう》は、現世《このよ》に存在得《ありう》べからざる海魔《かいま》とか船幽靈《ふなゆうれい》とかよりは百倍《ひやくばい》も千倍《せんばい》も
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