いま》は日數《ひかず》も二週《ふためぐり》あまりを※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、73−5]《す》ぎて眞《しん》の闇《やみ》――勿論《もちろん》先刻《せんこく》までは新月《しんげつ》の微《かす》かな光《ひかり》は天《てん》の奈邊《いづく》にか認《みと》められたのであらうが、今《いま》はそれさへ天涯《でんがい》の彼方《かなた》に落《お》ちて、見渡《みわた》す限《かぎ》り黒暗々《こくあん/\》たる海《うみ》の面《おも》、たゞ密雲《みつうん》の絶間《たへま》を洩《も》れたる星《ほし》の光《ひかり》の一二|點《てん》が覺束《おぼつか》なくも浪《なみ》に反射《はんしや》して居《を》るのみである。
實《じつ》に物淋《ものさび》しい景色《けしき》※[#感嘆符三つ、73−10] 私《わたくし》は何故《なにゆゑ》ともなく悲哀《あはれ》を感《かん》じて來《き》た。すべて人《ひと》は感情《かんじやう》の動物《どうぶつ》で、樂《た》しき時《とき》には何事《なにごと》も樂《たの》しく見《み》え、悲《かな》しき時《とき》には何事《なにごと》も悲《かな》しく思《おも》はるゝもので、私《わたくし》は今《いま》、不圖《ふと》此《この》悽愴《せいさう》たる光景《くわうけい》に對《たい》して物凄《ものすご》いと感《かん》じて來《き》たら、忽然《たちまち》樣々《さま/″\》な妄想《まうぞう》が胸裡《こゝろ》に蟠《わだかま》つて來《き》た、今日《こんにち》までは左程《さほど》迄《まで》には心《こゝろ》に留《と》めなかつた、魔《ま》の日《ひ》、魔《ま》の刻《こく》の怪談《くわいだん》。白色檣燈《はくしよくしやうとう》の落下《らくか》、船長《せんちやう》の憤怒《ふんぬ》の顏《かほ》。怪《あやし》の船《ふね》の双眼鏡《さうがんきやう》。さては先日《せんじつ》反古《ほご》の新聞《しんぶん》に記《しる》されてあつた櫻木海軍大佐《さくらぎかいぐんたいさ》と其《その》帆走船《ほまへせん》との行衞《ゆくゑ》などが恰《あだか》も今夜《こんや》の此《この》物凄《ものすご》い景色《けしき》と何等《なにら》かの因縁《いんねん》を有《いう》するかのごとく、ありありと私《わたくし》の腦裡《のうり》に浮《うか》んで來《き》た。
『無※[#「(禾+尤)/上/日」、74−7]《ばか》なッ、無※[#「(禾+尤)/上/日」、74−7]《ばか》なッ。」と私《わたくし》は單獨《ひとり》で叫《さけ》んで見《み》た。強《し》いて斯《かゝ》る妄念《まうねん》を打消《うちけ》さんとて態《わざ》と大手《おほて》を振《ふ》つて甲板《かんぱん》を歩《あゆ》み出《だ》した。前檣《ぜんしやう》と後檣《こうしやう》との間《あひだ》を四五|回《くわい》も往復《わうふく》する内《うち》に其《その》惡感《あくかん》も次第《しだい》/\に薄《うす》らいで來《き》たので、最早《もはや》船室《ケビン》に歸《かへ》つて睡眠《すいみん》せんと、歩《あゆ》む足《あし》は今《いま》や昇降口《しようかうぐち》を一|段《だん》降《くだ》つた時《とき》、私《わたくし》は不意《ふい》に一|種《しゆ》異樣《ゐやう》の響《ひゞき》を聽《き》いた。
響《ひゞき》は遙《はる》かの海上《かいじやう》に當《あた》つて、極《きは》めて微《かす》かに――實《じつ》に審《いぶ》かしきまで微《かすか》ではあるが、たしかに砲《ほう》又《また》は爆裂《ばくれつ》發火《はつくは》信號《しんがう》の響《ひゞき》※[#感嘆符三つ、75−1]
私《わたくし》はふい[#「ふい」に傍点]と頭《かうべ》を左方《さはう》に廻《めぐ》らしたが、忽《たちま》ち『キヤツ』と叫《さけ》んで再《ふたゝ》び甲板《かんぱん》に跳出《をどりで》た。今迄《いまゝで》は少《すこ》しも心付《こゝろづ》かなかつたが、唯《たゞ》見《み》る、我《わが》弦月丸《げんげつまる》の左舷船尾《さげんせんび》の方向《はうかう》二三|海里《かいり》距《へだゝ》つた海上《かいじやう》に當《あた》つて、また一|度《ど》微《かすか》な砲聲《ほうせい》の響《ひゞき》と共《とも》に、タール桶《おけ》、油樽等《あぶらだるとう》を燃燒《もや》すにやあらん、※[#「火+稲のつくり」、第4水準2−79−87]々《えん/\》たる猛火《まうくわ》海《うみ》を照《てら》して、同時《どうじ》に星火《せいくわ》を發《はつ》する榴彈《りうだん》二|發《はつ》三|發《ぱつ》空《くう》に飛《と》び、つゞいて流星《りうせい》の如《ごと》き火箭《くわせん》は一|次《じ》一|發《ぱつ》右方《うはう》左方《さはう》に流《なが》れた。
私《わたくし》は實《じつ》に驚愕《おどろ》いたよ。
此邊《このへん》は印度洋《インドやう》の眞中《たゞなか》で、眼界《がんかい》の達《たつ》する限《かぎ》り島嶼《たうしよ》などのあらう筈《はづ》はない、まして約《やく》一|分《ぷん》の間隙《かんげき》をもつて發射《はつしや》する火箭《くわぜん》及《およ》び星火榴彈《せいくわりうだん》は危急存亡《きゝふそんぼう》を告《つ》ぐる難破船《なんぱせん》の夜間信號《やかんしんがう》※[#感嘆符三つ、75−11]
『やア、大變《たいへん》だ/\。』と叫《さけ》びつゝ私《わたくし》は本船《ほんせん》の右舷《うげん》左舷《さげん》を眺《なが》めた。船《ふね》には當番《たうばん》水夫《すゐふ》あり。海上《かいじやう》に起《おこ》る千|差萬別《さばんべつ》の事變《じへん》をば一も見遁《みのが》すまじき筈《はづ》の其《その》見張番《みはりばん》は今《いま》や何《なに》をか爲《な》すと見廻《みま》はすと、此時《このとき》右舷《うげん》の當番《たうばん》水夫《すゐふ》は木像《もくざう》の如《ごと》く船首《せんしゆ》の方《かた》に向《むか》つたまゝ、今《いま》の微《かすか》な砲聲《ほうせい》は耳《みゝ》にも入《い》らぬ樣子《やうす》、あらぬ方《かた》を眺《なが》めて居《を》る。左舷《さげん》の當番《たうばん》水夫《すゐふ》は今《いま》や確《たしか》に星火《せいくわ》迸《ほとばし》り、火箭《くわせん》飛《と》ぶ慘憺《さんたん》たる難破船《なんぱせん》の信號《しんがう》を認《みと》めて居《を》るには相違《さうゐ》ないのだが、何故《なぜ》か平然《へいぜん》として動《どう》ずる色《いろ》もなく、籠手《こて》を翳《かざ》して其方《そなた》を眺《なが》めて居《を》るのみ。
『當番《たうばん》水夫《すゐふ》! 何《なに》を茫然《ぼんやり》して居《を》るかツ※[#感嘆符三つ、76−8]』と叫《さけ》んだまゝ、私《わたくし》は身《み》を飜《ひるがへ》して船長室《せんちやうしつ》の方《かた》へ走《はし》つた。勿論《もちろん》、船《ふね》に嚴然《げんぜん》たる規律《きりつ》のある事《こと》は誰《たれ》も知《し》つて居《を》る、たとへ霹靂《へきれき》天空《てんくう》に碎《くだ》けやうとも、數萬《すうまん》の魔神《まじん》が一|時《じ》に海上《かいじやう》に現出《あらは》れやうとも、船員《せんゐん》ならぬ者《もの》が船員《せんゐん》の職權《しよくけん》を侵《おか》して、之《これ》を船長《せんちやう》に報告《ほうこく》するなどは海上《かいじやう》の法則《はふそく》から言《い》つて、到底《たうてい》許《ゆる》す可《べ》からざる事《こと》である。私《わたくし》も其《それ》を知《し》らぬではない、けれど今《いま》は容易《ようゐ》ならざる急變《きふへん》の塲合《ばあひ》である、一|分《ぷん》一|秒《びやう》の遲速《ちそく》は彼方《かなた》難破船《なんぱせん》のためには生死《せいし》の堺界《わかれめ》かも知《し》れぬ、加《くは》ふるに本船《ほんせん》右舷《うげん》の當番《たうばん》水夫《すゐふ》は眼《め》あれども眼無《めな》きが如《ごと》く、左舷《さげん》の當番《たうばん》水夫《すゐふ》は鬼《おに》か蛇《じや》か、知《し》つて知《し》らぬ顏《かほ》の其《その》心《こゝろ》は分《わか》らぬが、今《いま》は瞬間《しゆんかん》も躊躇《ちうちよ》すべき塲合《ばあい》でないと考《かんが》へたので、私《わたくし》は一散《いつさん》に走《はし》つて、船橋《せんけう》の下部《した》なる船長室《せんちやうしつ》の扉《ドーア》を叩《たゝ》いた。
『船長閣下《せんちやうかくか》、起《お》き玉《たま》へ、難破船《なんぱせん》がある! 難破船《なんぱせん》がある!』と叫《さけ》ぶと、此時《このとき》船長《せんちやう》は既《すで》に寢臺《ベツド》の上《うへ》に横《よこたは》つて居《を》つたが、『何《な》んですか。』とばかり澁々《しぶ/\》起上《おきあが》つて扉《ドーア》を開《ひら》いた。私《わたくし》はツト進《すゝ》み入《ゐ》り

『船長閣下《せんちやうかくか》、越權《えつけん》ながら報告《ほうこく》します、本船《ほんせん》左舷《さげん》後方《こうほう》、三|海里《かいり》許《ばかり》距《へだゝ》つた海上《かいじやう》に當《あた》つて一個《いつこ》の難破船《なんぱせん》がありますぞ。』
『難破船《なんぱせん》※[#疑問符感嘆符、1−8−77] あはゝゝゝゝ。』と船長《せんちやう》は大聲《おほごえ》に笑《わら》つた。驚愕《おどろ》くと思《おも》ひきや、彼《かれ》はいと腹立《はらだ》たし氣《げ》に顏《かほ》を顰《しか》めて
『難船《なんせん》? それは何《なん》ですか、本船《ほんせん》には絶《た》えず[#「絶《た》えず」は底本では「絶《た》えす」]海上《かいじやう》を警戒《みは》る當番《たうばん》水夫《すゐふ》があるです、敢《あへ》て貴下《きか》を煩《はずら》はす筈《はづ》も無《な》いです。』
『無論《むろん》です、けれど本船《ほんせん》の當番《たうばん》水夫《すゐふ》は眼《め》の無《な》い奴《やつ》に、情《こゝろ》の無《な》い奴《やつ》です、一人《ひとり》は茫然《ぼんやり》して居《ゐ》ます、一人《ひとり》は知《し》つて知《し》らぬ顏《かほ》をして居《ゐ》ます。船長閣下《せんちやうかくか》、早《はや》く、早《はや》く、難破船《なんぱせん》の運命《うんめい》は一|分《ぷん》一|秒《びやう》の遲速《ちそく》をも爭《あらそ》ひますぞ。』
『いけません!』と船長《せんちやう》は冷《ひやゝ》かに笑《わら》つた。
『貴下《あなた》は海上《かいじやう》の法則《ほうそく》を知《し》りませんか、たとへ如何《どん》な事《こと》があらうとも船員《せんゐん》以外《いぐわい》の者《もの》が其《それ》に嘴《くちばし》を容《ゐ》れる權利《けんり》が無《な》いです、また私《わたくし》は貴下《あなた》から其樣《そん》な報告《ほうこく》を受《う》ける義務《ぎむ》が無《な》いです。』と彼《かれ》は右手《ゆんで》を延《のば》して卓上《たくじやう》の葉卷《シユーガー》を取上《とりあげ》た。私《わたくし》は迫込《せきこ》み
『理屈《りくつ》を申《まう》すぢやありません、私《わたくし》の越權《えつけん》は私《わたくし》が責任《せきにん》を負《お》ひます。貴下《あなた》は信《しん》じませんか、今《いま》現《げん》に難破船《なんぱせん》が救助《きゆうじよ》を求《もとめ》て居《を》るのを。』
『信《しん》じません、信《しん》ぜられません。』と船長《せんちやう》は今《いま》取上《とりあ》げた葉卷《シユーガー》を腹立《はらた》たし氣《げ》に卓上《たくじやう》に投《な》げ返《かへ》して
『當番《たうばん》水夫《すゐふ》からは何等《なにら》の報告《ほうこく》の無《な》い内《うち》は决《けつ》して信じません。况《いわ》んや此樣《こんな》平穩《おだやか》な海上《かいじやう》に難破船《なんぱせん》などのあらう筈《はづ》は無《な》い、無※[#「(禾+尤)/上/日」、79−6]《ばか》なツ。』
『無※[#「(禾+尤)/上/日」、79−7]《ばか》なツ。』と私《わたくし》は勃然《むつ》としてしまつた。日頃《ひごろ》から短氣《たんき》
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