》、瑞西《スイツツル》、露西亞等《ロシヤとう》の元氣《げんき》盛《さか》んなる人々《ひと/″\》は脛《すね》を叩《たゝ》いて跳《をど》り出《で》たので、私《わたくし》もツイ其《その》仲間《なかま》に釣込《つりこ》まれて、一|發《ぱつ》の銃聲《じうせい》と共《とも》に無《む》二|無《む》三に驅《かけ》つたが、殘念《ざんねん》なるかな、第《だい》一|着《ちやく》に决勝點《けつしようてん》に躍込《をどりこ》んだのは、佛蘭西《フランス》の豫備海軍士官《よびかいぐんしくわん》とか云《い》へる悽《すさ》まじく速《はや》い男《をとこ》、第《だい》二|着《ちやく》は勤務《きんむ》のため我《わが》日本《につぽん》へ向《むか》はんとて此《この》船《ふね》に乘組《のりく》んだ伊太利《イタリー》の公使館《こうしくわん》附《づき》武官《ぶくわん》の海軍士官《かいぐんしくわん》、私《わたくし》は辛《からう》じて第《だい》三|着《ちやく》、あまり面白《おもしろ》くないので、今度《こんど》は一つ日本男兒《につぽんだんじ》の腕前《うでまへ》を見《み》せて呉《く》れんと、うまく相撲《すまう》の事《こと》を發議《はつぎ》すると、忽《たちま》ち彌次連《やじれん》は集《あつ》まつて來《き》た。彌次連《やじれん》の其中《そのなか》から第《だい》一に私《わたくし》に飛掛《とびかゝ》つて來《き》た一|人《にん》は、獨逸《ドイツ》の法學士《はふがくし》とかいふ男《をとこ》、隨分《ずゐぶん》腕力《わんりよく》の逞《たく》ましい人間《にんげん》であつたが、此方《こなた》は多少《たせう》柔道《じうだう》の心得《こゝろえ》があるので、拂腰《こしはらひ》見事《みごと》に極《きま》つて私《わたくし》の勝《かち》、つゞいて來《く》る奴《やつ》、四人《よにん》まで投《な》げ倒《たふ》したが、第《だい》五|番目《ばんめ》にのつそりと現《あら》はれて來《き》た露西亞《ロシヤ》の陸軍士官《りくぐんしくわん》、身《み》の丈《た》け六|尺《しやく》に近《ちか》く阿修羅王《あしゆらわう》の荒《あ》れたるやうな男《をとこ》、力任《ちからまか》せに私《わたくし》の兩腕《りよううで》を握《にぎ》つて一振《ひとふり》に振《ふ》り飛《と》ばさんず勢《いきほひ》、私《わたくし》も之《これ》には頗《すこぶ》る閉口《へいこう》したが、どつこひ待《ま》てよ、と踏止《ふみとゞま》つて命掛《いのちが》けに揉合《もみあ》ふ事《こと》半時《はんとき》ばかり、漸《やうやく》の事《こと》で片膝《かたひざ》を着《つ》かしてやつたので、此《この》評判《へうばん》は忽《たちま》ち船中《せんちゆう》に廣《ひろ》まつて、感服《かんぷく》する老人《らうじん》もある、切齒《はがみ》する若者《わかもの》もあるといふ騷《さは》ぎ、誰《たれ》いふとなく『日本人《につぽんじん》は鐵《てつ》の一|種《しゆ》である、如何《いかん》となれば黒《くろ》く且《か》つ堅固《けんご》なる故《ゆゑ》に。』などゝ不思議《ふしぎ》なる賞讃《しようさん》をすら博《はく》して、一|時《じ》は私《わたくし》の鼻《はな》も餘程《よほど》高《たか》かつたが、茲《こゝ》に一|大《だい》事件《じけん》が出來《しゆつたい》した、それは他《ほか》でもない、丁度《ちやうど》此《この》船《ふね》に米國《ベイこく》の拳鬪《けんとう》の達人《たつじん》とかいふ男《をとこ》が乘合《のりあは》せて居《を》つたが、此《この》噂《うわさ》を耳《みゝ》にして先生《せんせい》心安《こゝろやす》からず、『左程《さほど》腕力《わんりよく》の強《つよ》い日本人《につぽんじん》なら、一|番《ばん》拳鬪《けんとう》の立《たち》合ひをせぬか。』と申込《まうしこ》んで來《き》た。
私《わたくし》は拳鬪《けんとう》の仕合《しあ》ひは見《み》た事《こと》はあるが、まだやつた事《こと》は一|度《ど》もない、然《しか》し斯《か》く申込《まうしこ》まれては男《をとこ》の意地《いぢ》、どうなるものかと一|番《ばん》立合《たちあ》つて見《み》たが馴《な》れぬ業《わざ》は仕方《しかた》がない、散々《さん/″\》な目《め》に逢《あ》つて、氣絶《きぜつ》する程《ほど》甲板《かんぱん》の上《うへ》に投倒《なげたふ》されて、折角《せつかく》高《たか》まつた私《わたくし》の鼻《はな》も無殘《むざん》に拗折《へしを》られてしまつた。春枝夫人《はるえふじん》は痛《いた》く心配《しんぱい》して『あまりに御身《おんみ》を輕《かろ》んじ玉《たま》ふな。』と明眸《めいぼう》に露《つゆ》を帶《お》びての諫言《いさめごと》、私《わたくし》は實《じつ》に殘念《ざんねん》であつたが其儘《そのまゝ》思《おも》ひ止《とゞま》つた。一|時《じ》は拳鬪《けんとう》のお禮《れい》に眞劍勝負《しんけんしやうぶ》でも申込《まうしこ》んで呉《く》れんかとまで腹立《はらた》つたのだが。
拳鬪《けんとう》の翌日《よくじつ》また一《ひと》騷動《さうどう》が持上《もちあが》つた。それは興行《こうげう》のためにと香港《ホンコン》へ赴《おもむ》かんとて、此《この》船《ふね》に乘組《のりく》んで居《を》つた伊太利《イタリー》の曲馬師《きよくばし》の虎《とら》が檻《おり》を破《やぶ》つて飛《と》び出《だ》した事《こと》で、船中《せんちう》鼎《かなへ》の沸《わ》くが如《ごと》く、怒《いか》る水夫《すゐふ》、叫《さけ》ぶ支那人《シナじん》、目《め》を暈《まは》す婦人《ふじん》もあるといふ騷《さは》ぎで、弦月丸《げんげつまる》出港《しゆつかう》のみぎりに檣燈《しやうとう》の微塵《みじん》に碎《くだ》けたのを見《み》て『南無阿彌陀佛《なむあみだぶつ》、此《この》船《ふね》には魔《ま》が魅《みい》つて居《を》るぜ。』と呟《つぶや》いた英國《エイこく》の古風《こふう》な紳士《しんし》は甲板《かんぱん》から自分《じぶん》の船室《へや》へ逃《に》げ込《こ》まんとて昇降口《しようかうぐち》から眞逆《まつさかさま》に滑落《すべりお》ちて腰《こし》を※[#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、70−4]《ぬ》かした、偶然《ぐうぜん》にも船《ふね》の惡魔《あくま》が御自分《ごじぶん》に祟《たゝ》つたものであらうか。虎《とら》は漸《やうやく》の事《こと》で捕押《とりおさ》へたが其爲《そのため》に怪我人《けがにん》が七八|人《にん》も出來《でき》た。
かゝる樣々《さま/″\》の出來事《できごと》の間《あひだ》、吾等《われら》の可憐《かれん》なる日出雄少年《ひでをせうねん》は、相變《あひかは》らず元氣《げんき》よく始終《しじゆう》甲板《かんぱん》を飛廻《とびまは》つて居《を》る内《うち》に、ふとリツプ[#「リツプ」に傍線]とか云《い》ふ、英吉利《イギリス》の極《きは》めて剽輕《へうきん》な老爺《をやぢさん》と懇意《こんい》になつて、毎日々々《まいにち/\》面白《おもしろ》く可笑《をかし》く遊《あそ》んで居《を》る内《うち》、或《ある》日《ひ》の事《こと》其《その》老爺《をやぢさん》が作《こしら》へて呉《く》れた菱形《ひしがた》の紙鳶《たこ》を甲板《かんぱん》に飛《と》ばさんとて、頻《しきり》に騷《さは》いで居《を》つたが、丁度《ちやうど》其時《そのとき》船橋《せんけう》の上《うへ》で、無法《むはふ》に水夫等《すゐふら》を叱付《しかりつ》けて居《を》つた人相《にんさう》の惡《わる》い船長《せんちやう》の帽子《ぼうし》を、其《その》鳶糸《たこいと》で跳飛《はねと》ばしたので、船長《せんちやう》は元來《ぐわんらい》非常《ひじやう》に小八釜《こやかま》しい男《をとこ》、眞赤《まつか》になつて此方《こなた》に向直《むきなほ》つたが、あまりに無邪氣《むじやき》なる日出雄少年《ひでをせうねん》の姿《すがた》を見《み》ては流石《さすが》に怒鳴《どな》る事《こと》も出來《でき》ず、ぐと/″\口《くち》の中《うち》で呟《つぶや》きながら、其《その》ビール樽《だる》のやうな身體《からだ》を轉《まろ》ばして、帽子《ぼうし》の後《あと》を追《お》ひかけた話《はなし》など、いろ/\變《かは》つた事《こと》もあるが、餘《あま》り管々《くだ/″\》しくは記《しる》すまい。
かくて吾等《われら》の運命《うんめい》を托《たく》する弦月丸《げんげつまる》は、アデン[#「アデン」に二重傍線]灣《わん》を出《い》でゝ印度洋《インドやう》の荒浪《あらなみ》へと進入《すゝみい》つた。
第六回 星火榴彈《せいくわりうだん》
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難破船の信號――イヤ、流星の飛ぶのでせう――無稽な三個の船燈――海幽靈め――其眼が怪しい
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荒浪《あらなみ》高《たか》き印度洋《インドやう》に進航《すゝみい》つてからも、一日《いちにち》、二日《ふつか》、三日《みつか》、四日《よつか》、と日《ひ》は暮《く》れ、夜《よ》は明《あ》けて、五日目《いつかめ》までは何事《なにごと》もなく※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、71−12]去《すぎさ》つたが、其《その》六日目《むいかめ》の夜《よる》とはなつた。私《わたくし》は夕食後《ゆふしよくご》例《いつも》のやうに食堂《しよくだう》上部《じやうぶ》の美麗《びれい》なる談話室《だんわしつ》に出《い》でゝ、春枝夫人《はるえふじん》に面會《めんくわい》し、日出雄少年《ひでをせうねん》には甲比丹《カピテン》クツク[#「クツク」に傍線]の冐瞼旅行譚《ぼうけんりよかうだん》や、加藤清正《かとうきよまさ》の武勇傳《ぶゆうでん》や、また私《わたくし》がこれ迄《まで》の漫遊中《まんゆうちう》の失策談《しつさくばなし》などを語《かた》つて聽《き》かせて、相變《あひかは》らず夜《よ》を更《ふ》かしたので、夫人《ふじん》と少年《せうねん》をば其《その》船室《ケビン》に送《おく》り込《こ》み、明朝《めうてう》を約《やく》して其處《そこ》を去《さ》つた。
印度洋《インドやう》中《ちう》の氣※[#「候」の「ユ」に代えて「工」、72−6]《きかう》程《ほど》變化《へんくわ》の激《はげ》しいものはない、今《いま》は五|月《ぐわつ》の中旬《ちうじゆん》、凉《すゞ》しい時《とき》は實《じつ》に心地《こゝち》よき程《ほど》凉《すゞ》しいが、暑《あつ》い時《とき》は日本《につぽん》の暑中《しよちう》よりも一|層《そう》暑《あつ》いのである。殊《こと》に今宵《こよひ》は密雲《みつうん》厚《あつ》く天《てん》を蔽《おほ》ひ、四|邊《へん》の空氣《くうき》は變《へん》に重々《おも/\》しく、丁度《ちやうど》釜中《ふちう》にあつて蒸《む》されるやうに感《かん》じたので、此儘《このまゝ》船室《ケビン》に歸《かへ》つたとて、迚《とて》も安眠《あんみん》は出來《でき》まいと考《かんが》へたので、喫煙室《スモーキングルーム》に行《ゆ》かんか、其處《そこ》も暑《あつ》し、寧《むし》ろ好奇《ものずき》ではあるが暗夜《あんや》の甲板《かんぱん》に出《い》でゝ、暫時《しばし》新鮮《しんせん》の風《かぜ》に吹《ふ》かれんと私《わたくし》は唯《たゞ》一人《ひとり》で後部甲板《こうぶかんぱん》に出《で》た。此時《このとき》時計《とけい》の針《はり》は既《すで》に十一|時《じ》を廻《めぐ》つて居《を》つたので、廣漠《くわうばく》たる甲板《かんぱん》の上《うへ》には、當番《たうばん》水夫《すゐふ》の他《ほか》は一|個《こ》の人影《ひとかげ》も無《な》かつた、船《ふね》は今《いま》、右舷《うげん》左舷《さげん》に印度洋《インドやう》の狂瀾《きやうらん》怒濤《どたう》を分《わ》けて北緯《ほくゐ》十|度《ど》の邊《へん》を進航《しんかう》して居《を》るのである。ネープルス[#「ネープルス」に二重傍線]港《かう》を出《い》づる時《とき》には笑《え》めるが如《ごと》き月《つき》の光《ひかり》は鮮明《あざやか》に此《この》甲板《かんぱん》を照《てら》して居《を》つたが、今《
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