じぶん》のからだはひどく煽《あふ》られはじめた。〔ああ、ヱヴェレストはまだ遠《とほ》いらしい。〕ペンペは悲《かな》しい聲《こえ》を[#「聲《こえ》を」は底本では「馨《こえ》を」]あげて泣《な》きだしたが、自分《じぶん》の聲《こえ》を聴《き》いて救《すく》ひに来《く》るものも無《な》いのかとおもふと、腹《はら》が立《た》つて、頭《あたま》の中《なか》が茫《ぼう》ッとして来《き》た。ラランのやつに欺《だま》されたと気《き》づいても、可哀《かあい》さうなペンペはその抉《えぐ》られた両方《りやうほう》の眼《め》から血《ち》を滴《したた》らすばかりだつた。もうラランの名《な》も呼《よ》ばない。羽搏《はばた》く元気《げんき》もしだいに減《へ》つて、たゞ疲《つか》れはてたからだは、はげしい霧《きり》のながれに乗《の》つて漂《ただよ》つてゐた。そのとき、ラランの悪《わる》はずつとペンペを離《はな》れて、上《うへ》の方《ほう》を飛《と》んでゐた。ラランはフト羽《はね》を休《やす》めて下《した》を見《み》た。
ペンペのからだが黒《くろ》い小《ちひ》さな點《てん》になつて、グーッグーッと錐《きり》を揉《も》むやうに下界《した》に墜《を》ちてゆくのがわかつた。やがてそれも見《み》えなくなつてしまつた。ペンペはどうなつたらうか。
『ああ、いい塩梅《あんばい》に墜《を》ちやがつた。自分《じぶん》の眼玉《めだま》を喰《く》ふなんて阿呆《あほう》がどこにゐる。ペンペの邪魔《じやま》さえゐなけりや、もう後《あと》はをれのものだ。』
 ラランはいつものやうに、カラカラと笑《わら》つた。五千メートル。いつもならこの辺《へん》へ来《く》るまでに疲《つか》れて墜《を》ちてしまう筈《はづ》なのに、今度《こんど》は莫迦《ばか》に調子《てうし》がいい。けれども鼻唄《はなうた》[#ルビの「はなうた」は底本では「はねうた」]まじりに頂上《てうじやう》を目指《めざ》してるラランも、ひとりぼつちになると、やつと疲《つか》れが出《で》てきた。鼻唄《はなうた》もくしゃみになつてしまつた。〔ヱヴェレストは思《おも》つたより遠《とほ》いな〕と独言《ひとりごと》しながら四辺《あたり》を見廻《みまは》すと、薄《うす》い日《ひ》の光《ひかり》が美《うつく》しく妖《あや》しく漲《みなぎ》つて、夕暮《ゆふぐれ》近《ちか》くなつたのだらう。下界《した》を見《み》ても、雲《くも》や霧《きり》でまるで海《うみ》のやうだ。悪《わる》いラランも少《すこ》しばかり寂《さび》しくなつてきた。今度《こんど》こそ腹《はら》も減《へ》つてきた。すると突然《とつぜん》、ヱヴェレストの頂上《てうじやう》から大《おほ》きな聲《こえ》で怒鳴《どな》るものがあつた。
『ラランいふのはおまへか。ヱヴェレストはそんな鴉《からす》に用《よう》はないぞ。おまへなんぞに来《こ》られると山《やま》の穢《けが》れだ。帰《かへ》れ、帰《かへ》れ。』
 山《やま》全体《ぜんたい》が動《うご》いたやうだつた。急《きふ》に四辺《あたり》が薄暗《うすくら》くなり、引《ひ》き裂《さ》けるやうな冷《つめた》い風《かぜ》の唸《うな》りが起《おこ》つてきたので、驚《おどろ》いたラランは宙返《ちうがへ》りしてしまつた。そこへまた、何《なに》か雷《かみなり》のやうに怒鳴《どな》る聲《こえ》がしたかと思《おも》ふと、小牛《こうし》ほどもある硬《かた》い氷《こほり》の塊《かたまり》がピユーツと墜《を》ちてきて、真向《まつこう》からラランのからだを撥《は》ね飛《と》ばした。アッと叫《さけ》ぶ間《ま》もなく、気《き》を失《うしな》つたラランは、恐《おそ》ろしい速《はや》さでグングンと下界《した》に墜《を》ちていつた。
 もう夜《よ》になつた頃《ころ》だ。深《ふか》い谷間《たにま》の底《そこ》で天幕《テント》を張《は》つた回々教《フイフイけう》の旅行者《りよかうしや》が二三|人《にん》、篝火《かがりび》を囲《かこ》んでがやがや話《はな》してゐた。
『まさか不思議《ふしぎ》なもんだ。両方《りやうはう》の眼玉《めだま》が無《な》い鴉《からす》なんて、どうしたこつた。』
『猟師《れふし》に撃《う》たれた様子《やうす》でもなかつたし。』
『でもここいらの岩角《いはかど》に打《う》ちつけられちや、なんぼでも生命《いのち》は無《な》いにきまつてらあ。』
『そりやさうだ。とにかく可哀《かあい》さうなやつよ。』
 これは多分《たぶん》あのペンペの噂《うはさ》に違《ちが》ひない。すると元気《げんき》で正直《しやうじき》なペンペも死《し》んでしまつたのか。そんな話《はなし》の最中《さいちう》にサァーツと音《おと》をたてゝ漆《うるし》のやうに暗《くら》い空《そら》の方《はう》から、直逆《まつさか
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