ある。
うっかり打ちあけられるものではない……。だが都会人の気の弱いものが、一たん飜《ひるがえ》ると思い切った偽悪者《ぎあくしゃ》になることも、小初はよく下町で見受けている例である。貝原もそれを見越《みこ》して父に安心しているのではないか。案外もろく父もそこに陥《お》ちいらぬとも限らない。陥ちいってくれることを自分は父に望むのか。それを望むよりほか二人の生きて行く道はないのか……。
船虫が蚊帳の外の床《ゆか》でざわざわ騒《さわ》ぐ。野鼠《のねずみ》でも柱を伝って匍い上って来たのだろうか。小初は団扇《うちわ》で二つ三つ床を叩《たた》いて追う。その音に寝呆《ねぼ》けて呼びもしない父が、「え?」と返事をして寝返りをうつ、うつろな声。――あわれな父とそしてあわれな娘。
小初は父の脱いだ薄い蒲団をそっと胸元へ掛け直してやった。
小初は闇《やみ》のなかでぱっちり眼を開けているうちに、いつか自分の体を両手で撫《な》でていた。そして嗜好《しこう》に偏《かたよ》る自身の肉体について考え始めた。小初は子供のうち甘いものを嫌って塩せんべいしか偏愛《へんあい》して喰べようとしなかった自分を思い出した。
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