の代から隅田川《すみだがわ》岸に在った。それが都会の新文化の発展に追除《おいの》けられ追除けられして竪川《たてかわ》筋に移り、小名木川《おなぎがわ》筋に移り、場末の横堀《よこぼり》に移った。そしてとうとう砂村のこの材木置場の中に追い込まれた。転々した敗戦のあとが傷ましくずっと数えられる。だが移った途端《とたん》に東京は大東京と劃大《かくだい》され砂村も城東区砂町となって、立派に市域の内には違《ちが》いなかった。それがわずかに「わが青海流は都会人の嗜《たしな》みにする泳ぎだ。決して田舎《いなか》には落したくない。」そういっている父の虚栄心《きょえいしん》を満足させた。父は同じ東京となった放水路の川向うの江戸川区《えどがわく》には移り住むのを極度に恐《おそ》れた。葛西《かさい》という名が、旧東京人の父には、市内という観念をいかにしても受付けさせなかった。ついに父は荒川放水を逃路《とうろ》の限りとして背水の陣《じん》を敷《し》き、青海流水泳の最後の道場を死守するつもりである。
このように夏|稼《かせ》ぎの水泳場はたびたび川筋を変えたが、住居は今年の夏前までずっと日本橋区の小網町《こあみちょ
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