小初は呟《つぶや》いた。
 五日後に挙行される遠泳会の晴雨が気遣《きづか》われた。
 西の方へ瞳《ひとみ》を落すと鈍《にぶ》い焔《ほのお》が燻《いぶ》って来るように、都会の中央から市街の瓦《かわら》屋根の氾濫《はんらん》が眼を襲《おそ》って来る。それは砂町一丁目と上大島町の瓦斯《ガス》タンクを堡塁《ほるい》のように清砂通りに沿う一線と八幡《やわた》通りに沿う一線に主力を集め、おのおの三方へ不規則に蔓延《まんえん》している。近くの街の屋根瓦の重畳《ちょうじょう》は、躍《おど》って押《お》し寄せるように見えて、一々は動かない。そして、うるさいほど肩《かた》の数を聳《そびや》かしている高層建築と大工場。灼熱《しゃくねつ》した塵埃《じんあい》の空に幾百《いくひゃく》筋も赫《あか》く爛《ただ》れ込んでいる煙突《えんとつ》の煙《けむり》。
 小初は腰の左手を上へ挙げて、額に翳している右の腕に添《そ》え、眩《まぶ》しくないよう眼庇《まびさ》しを深くして、今更《いまさら》のように文化の燎原《りょうげん》に立ち昇《のぼ》る晩夏の陽炎《かげろう》を見入って、深い溜息《ためいき》をした。
 父の水泳場は父祖
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