#ここで字下げ終わり]
これは希臘《ギリシア》の擬古狂詩《ぎこきょうし》の断片をざっと飜訳したものだそうだ。それと同じような意味を父の敬蔵《けいぞう》は老荘《ろうそう》の思想から採って、「渾沌未分の境涯《きょうがい》」だといつも小初に説明していた。
瞼《まぶた》に水の衝動《しょうどう》が少くなると小初は水中で眼を開いた。こどもの時分から一人娘を水泳の天才少女に仕立てるつもりの父親敬蔵は、かなり厳しい躾《しつ》け方をした。水を張った大桶《おおおけ》の底へ小石を沈《しず》めておいて、幼い小初に銜《くわ》え出さしたり、自分の背に小初を負うたまま隅田川の水の深瀬《ふかせ》に沈み、そこで小初を放して独りで浮き上らせたり、とにかく、水というものから恐怖《きょうふ》を取り去り、親しみを持たせるため家伝を倍加して小初を躾けた。
水中は割合に明るかった。磨硝子色《すりガラスいろ》に厚みを保って陽気でも陰気でもなかった。性を脱いでしまった現実の世界だった。黎明《れいめい》といえば永遠な黎明、黄昏《たそがれ》といえば永遠に黄昏の世界だった。陸上の生活力を一度死に晒《さら》し、実際の影響力《えいきょう
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