も鶴の翼のやうに左右へ長く開いたのである……人々はこの清艶《せいえん》な有様に唾を呑《の》んだ。娘達はそのまゝ黙つてしばらく泣いた。顔を上げた時、二人の頬《ほお》から玉のやうな涙が溢《あふ》れ落ちた。御殿女中上りの老婢に粧装《つく》られる二人の厚化粧に似合つて高々と結《ゆ》ひ上げた黒髪の光や、秀でた眉《まゆ》の艶《つや》が今日は一点の紅《べに》をも施さない面立ちを一層品良く引きしめてゐる。とりわけ近頃|憂《うれ》ひが添つて却《かえ》つてあでやかな妹娘の富士額《ふじびた》ひが宗右衛門には心憎いほど悲しく眺められたのであつた。
「ごーん」と低い丸味を帯びた鐘の音が、本堂の隅々まで響いた。夢のさめたやうな宗右衛門の追想が打ち切られた。彼はあわてゝ眼を開いた。読経《どきょう》が始まらうとするのである。泰松寺の老師が、五六人の伴僧を随《したが》へて、しづ/\棺前に進み寄つた。宗右衛門は幾度も眼をしばだたいて老師のにび[#「にび」に傍点]色の法衣をうしろから眺めた。老師の後頭部の薄い禿《はげ》へ仏前の蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》がちらちらとうつつた。宗右衛門はいつもならばひそかに得意の微笑を洩《も》らすのである。老師は宗右衛門より三つ四つ年も若い。宗右衛門にはまだ白髪交《しらがまじ》りでも禿はない。かなり名の知れた名僧でありながらいつも貧乏たらしいにび[#「にび」に傍点]色の粗服で、何処《どこ》かよぼよぼして見えるのが、無信心の宗右衛門にむしろ平常は滑稽《こっけい》にも思はれた。だが、今日の宗右衛門には老師のにび[#「にび」に傍点]色姿が何となく尊く見える。
「不思議だな、俺も変つたわい」
宗右衛門は腹の中で独り言つた。
夏になつて二人の娘達はいよ/\美しかつた。片輪の身のあはれさが添つて、以前の美しさに一層|清艶《せいえん》な陰影が添つた。が、今年もお揃《そろ》ひの派手な縮み浴衣《ゆかた》を着は着ても、最早《もは》やその裾《すそ》から玉のやうな踵《かかと》をこぼして蛍狩《ほたるがり》や庭の涼《すず》みには歩かなかつた。異様な醜いうづくまりをその下半身にかたちづくつて、二人は離れ家《や》の居室にひつそりとしてゐた。退屈な悩ましい――しかしそれを口にはあまり出し合ひもせず、二人は美しい額《ひたい》の汗ばかり拭《ふ》いてゐた。
「御覧あそばせな、今朝は紅が九つ、紫が六つ、絞りが四つと白が七つ、それから瑠璃《るり》色が……」
老女が小《こ》女によく磨いた真鍮《しんちゅう》の耳盥《みみだらい》を竹椽《たけえん》へ運ばせた。うてなからちぎり取られた紅、紫、瑠璃色、白、絞り咲きなどの朝顔の花が、幾十となく柄《え》を抜いた小傘のやうに、たつぷり張つた耳盥の水面に浮んでゐる。この毎朝のたのしみを老女は若い頃の大名屋敷勤めの間に覚えた。
「あ、お旦那《だんな》が」
小女が老婢《ろうひ》の後で言つた。皆、水面に集まつてゐた眼をあげた。古いきびら[#「きびら」に傍点]を着た宗右衛門が母屋《おもや》へ通ふ庭の小径《こみち》をゆつくりと歩いて来る。
「お珍らしい」
老女は顔を皺《しわ》めて微笑した。
「まあ、お父様」
おとなしいお小夜は、たゞうれしくなつかしかつた。俄《にわ》かに居ずまひを直しにかゝつた。が、敏感なお里は何事か胸にこたへた。お里は、ぢつとしたまゝ黙つてゐた。前庭の一番大きな飛石の上に、宗右衛門は立つて淋《さび》しく微笑した。
「まあ、お珍らしい」
老女はひたすら宗右衛門を座敷の方へ招じ入れようとした。
今朝もまた、彼が見る毎《ごと》に二人の娘の美しさは増して行つた。醜い下半部の反比例をますます上半身に現はすのではないか。皮肉の美しさを、ます/\宗右衛門は見せつけられる。美しい娘達の上半身を見る宗右衛門の苦痛は、醜い下半部を見る苦痛と変らなかつた。
宗右衛門はこの苦痛の為めに、追々《おいおい》娘達の部屋を訪れなくなつたのであつた。母の無いのちの一層たよりない娘達を却《かえ》つて訪ねて来なくなつたのであつた。
「おとふ様、どう遊ばしました」
お小夜が懐かしげに父親を仰いだ。
「どうも商売の方が忙しくてな。それにお母さんが亡くなつて、家の方もなにやかや……」
ぢつと眼を伏せてゐるお里を見て、宗右衛門はだまつてしまつた。
「おう、朝顔が綺麗《きれい》だな」
その耳盥《みみだらい》から少し視線を上げれば、そこにはお小夜の異様な脚部――宗右衛門はぞつとして、逆に老女の顔を見上げた。
「どうだな、二人とも毎日元気かな」
宗右衛門は四日前の夕方、こゝを訪ねたきりであつた。娘達が忙しいお辻の手から育ての侍女の手に移つてこゝの離れ家《や》に棲《す》み始めて十何年間、朝夕二回の屋敷へ往《ゆ》くさ帰るさ、必ず宗右衛門はこの部屋へ立ち寄つた。
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