老主の一時期
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お旦那《だんな》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)数人|宛《ずつ》で

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1−8−77]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ます/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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「お旦那《だんな》の眼の色が、このごろめつきり鈍つて来たぞ。」
 店の小僧や番頭が、主人宗右衛門のこんな陰口を囁《ささや》き合ふやうになつた。宗右衛門の広大な屋敷内に、いろは番号で幾十戸前の商品倉が建て連ねてある。そのひとつひとつを数人|宛《ずつ》でかためて居る番頭や小僧の総数は百人以上であつた。その多人数の何処《どこ》か一角から起つたひとつの話題が、全体へ行き渡るまでには余程の時間がかゝる。そしてその話題によほどの確実性と普遍性がなければ、多くはある一角、または半数、三分の一くらゐなところで、いつも立ち消えになつてしまふ。宗右衛門のこの噂《うわさ》は、いつ、どの辺から起つたのか、どれだけの時間を経て屋敷全体に拡がつたものか判らないが、兎《と》に角《かく》今までにない確実性と普遍性とを持つてゐる。その上一同の者に、これほど直接に関係する話題はなかつた。
 山城屋宗右衛門のその一瞥《いちべつ》で、屋敷の隅々までも見透すほどの鋭い眼光は、彼が江戸諸大名の御用商人として、一代に巨万の富をかち得た偉《すぐ》れた彼の商魂によつて磨き出されたものである。彼が次第に老齢を加へて来ても、容易に衰へなかつたその眼光が、にはかに鈍つた原因として誰も否定し得ない出来事――山城屋の家庭の幸福を根こそぎ抜き散らしてしまつた悲惨な出来事が、最近突然山城屋へ現はれた。
 宗右衛門に二人の娘があつた。上のお小夜《さよ》は楓《かえで》のやうな淋《さび》しさのなかに、どこか艶《なま》めかしさを秘めてゐた。妹のお里はどこまでも派手であでやかであつた。宗右衛門の幸福は、巨万の富を一代にかち得たばかりで満足出来なくて、あの春秋を一時にあつめた美貌《びぼう》を二人まで持つたと人々は羨《うらや》んだ。その二人の娘が――お小夜は十九、お里は十七になつたばかりの今年の春、激しい急性のリヨーマチで、二人が二人とも前後して、俄跛《にわかびっこ》になつてしまつた。人々の驚き、まして宗右衛門夫婦にとつては、驚き以上の驚きであり、悲しみ以上の悲しみであつた。妻のお辻はそれがため持病の心臓病を俄《にわ》かに重らして死んで行つた。お辻は宗右衛門に添つて三十年、宗右衛門の頑強と鋭才との下をくゞつて、よく忍従に生きて来た。お辻は一日に三度か、四度侍女や乳母《うば》にかしづかれる愛娘達の部屋を覗《のぞ》くばかりが楽しみで、だまつて奉公人と共に働いて、別に人から好いとも悪いとも、批判されるほど目立ちもしない性分であつた。が、支へを失つた巨木のやうに、宗右衛門はがつかりとお辻の死顔の前へ座り込んでしまつたのである。俄跛の姉妹のことを呉《く》れ/″\も夫にたのんで逝《い》つたお辻の死顔の蒼《あお》ざめた萎《しな》びた頬《ほお》――お辻は五十で死んだのである。
 五月下旬の或る曇日の午後、山城屋の旦那寺《だんなでら》の泰松寺でお辻の葬儀が営まれた。宗右衛門は一番々頭の清之助や親類の男達に衛《まも》られながら葬列の中ほどを練《ね》つて歩いた。
 今、お辻の寝棺が悠々と泰松寺の山門――山城屋宗右衛門の老来の虚栄心が、ひそかに一郷の聳目《そばめ》を期待して彼の富の過剰を形の上に持ち来《きた》らしめた――をくぐつて行つた。宗右衛門には久しぶりに来て見たこの仰々《ぎょぎょう》しい山門が、背景をなす寺の前庭の寂びを含んだ老松《おいまつ》の枝の古色に何となくそぐはなく見えるのであつた。いつものやうな彼のこの山門に対する誇りと満足とは、決して彼には感じられなかつた。彼はむしろ、そのけばけばしい磨き瓦《かわら》の艶《つや》が、低く垂れた曇天の雲の色に、にぶく抑圧されてゐるのに安心した。彼は腫《は》れぼつたい眼を山門から逸《そ》らして、ほつと溜息《ためいき》をついた。彼は門脇の寄進札の劈頭《へきとう》に、あだかもこの寺門の保護者のやうに掲げ出されてある自分の名を、出来るだけ見まいとした。無頓着《むとんちゃく》な老師に先んじて、平常|斯《こ》うした俗事にまめな世話役某の顔を莫迦《ばか》/\しく思ひ浮べた。
 泰松寺は寺格の高い割りに貧乏であつた。新らしい堂々たる山門に較べて、本堂はほんの後れ毛のやうに古くてみすぼらしい。お辻の棺《ひつぎ》がその赤
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