時には夜ふけて寝酒の微酔でやつて来る時さへあつたのに、江戸への出入も店の商売もとかく怠り勝ちになつたといふ此頃《このごろ》の忙しさとは何であるか、老女には判り兼《か》ねた。
「お旦那《だんな》が、このごろ、泰松寺へしげ/\行かれる」
 と店の者から、ちらと聞いたが、それにしても娘達に疎遠してまで、妻女の墓参にばかり行かれるとはうけとれなかつた。
「旦那様、泰松寺にまた、御普請でも始まりますか」
「いや何にもない」
 宗右衛門は何故《なぜ》かあはてゝ老女の言葉を消した。
「お父様、お掛け遊ばせ」
 お小夜は小女に、麻の座布団をとらしてすゝめた。
「あゝ、ありがたう、かまはずにゐて呉《く》れ、わしは直ぐまた出かけなけりやならない」
 宗右衛門が庭に面して縁端の座布団へ坐《すわ》つた時、始めて父親を見上げたお里の鋭い視線を横顔に感じた――
(何もかもお里は勘付《かんづ》いてゐる)
 お里の利溌《りはつ》を余計愛してゐた宗右衛門が、今はお里が誰よりも怖ろしくなつた。やがてそれがいくらかの憎しみともなつた。小夜が不憫《ふびん》で、うつかり離れ家へ向けようとした足も、お里を考へてぎつくりと止まる。商売の算段もなまり、倉々を見廻る眼力もにぶつたが、人知れず遠くから離れ家を見詰める宗右衛門の眼の色は、異様に光つた。美しいゆゑに余計に醜い娘達の異形《いぎょう》が、追々宗右衛門の不思議な苦難の妄執となつて附纏《つきまと》つた。
 或る夜も宗右衛門は眼を覚した。広い十畳の間にひとり宗右衛門は寝てゐたのである。宵に降つた雨の名残《なごり》の木雫が、ぽたり/\と屋根を打つてゐた。蒸し暑いので宗右衛門は夜具をかいのけ、煙草《たばこ》を喫《す》はうとして起き上つた。床の上に座つて枕元の煙管《きせる》をとりあげた。引き寄せて見ると生憎《あいにく》、煙草盆の埋火《うずみび》が消えてゐたので、行燈《あんどん》の方へ膝《ひざ》を向けた――自然、まつすぐに離れ家の方を彼は向いてしまつたのである。――
(しまつた!)
 彼は喉元で自分を叱《しか》つた。宗右衛門にとつては最早《もは》や此頃《このごろ》の二人の娘は妄鬼であつた。離れ家はまさしく妄者の棲家《すみか》であつた。またしても、お小夜とお里と、それに時たまの例となつて、死んだお辻さへ異形のなかの一例となつて宗右衛門の眼前をぐる/\とめぐつた。
 宗右衛門は煙草《たばこ》を置いて、夏のはじめ泰松寺の老師から伝授されたうろ覚えの懺悔文《さんげもん》をあわてゝ中音に唱へ始めた。
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我昔所造諸悪業  皆由無始貪瞋痴
従身語意之所生  一切我今皆懺悔
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 この口唱が一しきり済んで、娘達のまぼろしの一めぐりしたあとへ、屋敷内のありとあらゆる倉々の俤《おもかげ》が彼の眼の前で躍《おど》り始めた。黒塗りに光る醤油《しょうゆ》倉、腰板鎧《こしいたよろい》の味噌《みそ》倉、そのほか厳丈《がんじょう》な石作りの米倉、豆倉。
 彼は、今度は少し大きな声で経を誦《ず》し続けた。だが、まばたき一つで、また娘達のまぼろしがかへつて来た。
 読経《どきょう》の声が、ずつと高くなると娘達の姿はかき消えて、今度は店の番頭小僧、はした[#「はした」に傍点]達のまぼろしがぞろ/\眼の前をとほり始めた。
 瞼《まぶた》をべつかつこう[#「べつかつこう」に傍点]した小僧もあり、平身低頭の老番頭、そのかげから、昔、かけ先きの間違ひで無体《むたい》に解雇した中年の男のうらめしさうな顔も出る。
 宗右衛門はふら/\と起き上ると、あやふくのめりさうになつた。が、辛《かろ》うじて足を踏みしめて再び蒲団《ふとん》の上にかしこまつた。そしてすつかり正式の読経の姿勢になつた。前の懺悔文を立てつゞけに誦し続けた。


 宗右衛門は夏の始めから、泰松寺の仏弟子となつてゐた。お辻が死んで一ヶ月程たつてからである。或日《あるひ》宗右衛門は生来の我慢を折つて、泰松寺の老師の膝下にひざまづいたのであつた。彼は突然、信仰心を起したといふわけではなかつた。彼が寂しさ苦しさのあまり、自分を救ふ何等《なんら》かの手段を、衆生《しゅじょう》済度《さいど》僧たる老師が持ち合せるであらうといふ一面功利的な思ひつきからでもあつた。その時、老師は、梅雨の晴れ上つた午後の日ざしがあかるくさした障子《しょうじ》をうしろに端座してゐた。中庭には芍薬《しゃくやく》が見事に咲き盛つてゐた。宗右衛門はお辻の葬式以来、ます/\老師のにび[#「にび」に傍点]色姿が尊く思へた。今日は一層、その念を深めた。が、直ぐさま自分の心持ちも言ひ出せなかつた。老師は宗右衛門の娘達の不幸を先《ま》づ頭に思ひ浮べた。次に彼の妻お辻の死を思つた。
「まあ、あなたの心は、大抵、わしにも判る。時々
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